商品コピーとしての「料亭の味」というのは、本当の料亭の味とは違う気がする。ぼくなんかが勝手に料亭を代表するわけにもいかないのだけれど、個人的に知りうる限りでは「ぜんぜん違う」なのだ。
先日、テレビ番組の企画で「これは!うまい!」「でしょう。料亭の味になるんです」と出演者が言っていた。料理実演を見る限り、そんなことなさそうなんだけどなぁ。コンビニで売っている、ひじきの煮物とごぼうサラダと、豚の角煮。これらを具材にしてご飯を炊くと、料亭の炊き込みごはんになるって。
どうなんだろう。彼らの言っている「料亭」が、ぼくのイメージとは違う店なのかな。炊き込みご飯は、肉も使うし魚も使うから脂肪が入るけれど、それをうまく抑えて使うっていう感覚。脂っこいものを嫌う傾向があるからね。サラダのマヨネーズと角煮の油、トッピングのバター。
違うぞコノヤロー。という気持ちがないではないけれど、そんなことよりも「美味しい和食=料亭の味」という摩訶不思議なフォーマットが出来上がっているのが面白い。料亭がおいしい和食の代表なわけないじゃない。ただの飲食店の「スタイル」でしかない、と思う。クラシック音楽もロックもシティポップもジャズもそれぞれに良い。
上記のテレビの例は一旦横において、一般的に商品に表示されているような「料亭の味」は、たぶん方向の話。で、違うだろうと思うのは、たぶん距離の話。
静岡県内だと、東名高速道路の分岐では「東京方面」「名古屋方面」と表示される事が多い。時速100キロで移動することを前提に考えれば、このくらいの距離感がちょうどよいのだろう。じゃあ、福岡県で「東京方面」と表示されていたら違和感がある。確かに方向は会っているかもしれないけれど、なんだか遠すぎやしないかい。
確かに料亭寄りの方向には向かっているかもしれないけれど、ちょっと遠すぎませんかね。というように見える。急須で入れた味に一番近いっていう広告コピーもあったけど、あれも似ている。ゴールに一番近いのはどれだっていうのを、スコア付けして7とか8とかで競っているイメージよね。ゴール、つまり満点が10なのか100なのか1000なのかは誰も言わない。個人的には10ではないと感じているが、それは茶処のプライドなのだろうか。
仮に、上記のような構造だとしたら、前述のテレビの例はハズレ値に見える。方向も距離もあっていない。料亭という言葉は、どこかの具体的なお店を想起していなくて、「スゲーうまい」の代わりに使われる表現になっているのか。それとも、彼らの中にある料亭のイメージがそういうものなのか。いずれにしても、物体として料亭に対する解像度はかなり低そうだ。
ジャーマンポテトはドイツに無い。というのはそこそこ知られたウンチクだろうか。アメリカ人から見て、ドイツっぽいものという意味でその名前がつけられたらしい。ジャガイモとベーコンの組み合わせはドイツでは定番だから、正しい。けれども、ジャパニーズヌードルという料理があったとして、それがラーメンだったらどうだろう。間違ってはいないけれど、やっぱり間違っている。という妙な感覚になる。いやぁ、他にもあるんだけどなぁ。むしろ、伝統的にはラーメンが一番新参者で、蕎麦とかうどんとかそうめんとか、代表になるならそっちでしょうよ。とでも言うかもしれない。
解像度が低い。鮮明に見えないくらいに距離がある。もしくは、わかりやすくアピールするために抽象度を高めたら、存在しないものが誕生した、とか。外国映画の中で「ニッポン」を表現するために、和服や漢字や屏風みたいなものが強引にダイニングに詰め込まれるというのがあったけど、そんな感じかもしれない。結果として、「料亭の味」が「実在しない味」と同義になっていく可能性もある。
今日も読んでいただきありがとうございます。料亭とか会席料理とか茶懐石とか本膳料理とか。そういったものが、本当に遠い存在になっているんだろうなぁ。そもそも、我々庶民と近かった時代なんてあったのかというと、大いに疑問ではあるけれどね。