たべものラジオの原稿やブログは、こうして思いついた言葉をキーボードを叩くことで文字に変換してくれる。誤変換に気がつかずにそのまま掲載してしまうこともあるけれど、それでも読み返してみれば間違いに気がつくことが出来る。その漢字の用法が違うというくらいの知識はあるわけだ。
経験のある方も多いと思うけれど、読める漢字と書ける漢字は別物だ。きっと英単語でも同じなんだろうな。読めるけれど正確なスペルを思い出せない。そんなことがありそうだ。調べ物をしたり、台本を書き起こすときには手書きにしているのだけれど、読めるのに書けない文字が多いことに愕然としている。「愕然」という文字だって、すんなり読んでいるけれど、書こうと思ったら、きっと書けない。
語彙力って、どちらに依存しているのだろう。理解できる言葉の量なのか、それとも使いこなせる言葉の量なのか。理解できる言葉が500で使いこなせる言葉が100の場合と、理解できる言葉が300だけど、使いこなせる言葉が150の人。なんとなく後者のような気がするんだけどね。どうだろう。
表現をするときに、あまり難解な言葉をたくさん使うのも考えもの。誰に伝えたいか、にもよるんだろうけど。本を読んでいて、語彙力や基礎知識が足りなくて苦労することがある。それは、シンプルにぼくのスキル不足。専門書などは特に顕著だ。たべものラジオという番組の特性上、難解なことをなるべくわかりやすく噛み砕くことが求められるから、難しい単語ばかりを使ってもしょうがない。まぁ、ぼくの語彙力では難しくなりようがないのだが。
そう言えば、松尾芭蕉が晩年頃に「軽み」が大切だと言っていた。和歌のカウンターカルチャーとしての俳句(俳諧の発句)が成立した瞬間。和歌ってさ。結構難しい言葉も使われるし、なにより先人たちの歌や出来事などを踏まえたもの。それらを知らなければ、なんのことを表現しているか分かりにくいという側面がある。まぁ、それが教養ではあるのだけど。
芭蕉は、この文脈に乗っていながらも、適度に距離を取ったのかも知れない。なるべく平易な言葉を使って、誰でもわかるようにした。それでいて、豊かな情景をたった17文字の中に折り込む。こうして書き出してみると、とんでもないことをやっているのだと改めて思う。古池や蛙飛びこむ水の音。わからない言葉がどこにも登場しない。
「軽み」に到達する前、古典的な和歌の文脈に則った歌を詠んでいたらしい。ちゃんと歌人だった、というと変な言い方だけど、イノベーションの前には型通りのスタイルだったというわけだ。語彙力も豊富なのだろうと想像する。理解できる言葉も使いこなせる言葉もとても多い。そういう状態から紡ぎ出される平易な表現。
平易な表現に終止するのであれば、わざわざ語彙力を高める必要はなさそうな気もするのだけど、どうなのだろう。なにか違う気がする。数多くの同義語があって、それぞれにちょっとずつニュアンスが違う。豊富なニュアンスの違いを使いこなせる状態になってから、それを簡単な言葉で表していく。豊富なニュアンスの言語化というところで語彙力が生きてくるのかも知れない。
いろんなバリエーションで煮物を作るようになっていくと、ほんのちょっとした「さじ加減」がわかるようになってくる。食材、出汁、調味料などの組み合わせで膨大な種類の煮物ができる。それらを自在に美味しく作ることが出来るようになったら、最終的にふろふき大根が美味しくなる。ということがあるのか、よくわからないが、芭蕉に無理やりなぞらえればそういうことになるのだろう。
今日も読んでくれてありがとうございます。子どもたちが幼稚園や学校などで新しく知ったことを紹介してくれる。難しそうな言葉を使って喋ってみる。きっと「理解できる」を「使える」に移行させるステップなのかもね。ちゃんと驚いて、ちゃんと聞くようにしよう。