「見てみて、あの雲、バナナみたい。」
大人であるぼくは、娘の無邪気な声に目を細めるだけ。実にほのぼのとした時間。
「あぁ、ホントだね。」
言葉を返すと同時に、ある考えが浮かんできた。
雲をバナナになぞらえているのか?
それとも、バナナのように見えるという感情を雲が受け入れているのか?
今じゃない。今それを考えるときではない。
そもそも、そんな問いを考えたところでなんになる。
心の片隅にもやもやを仮置きして、このときは娘たちと過ごす時間に集中することにした。
見立てるってなんだろう
”見立てる”って言葉があるでしょう。たとえば、日本庭園で庭石を富士山に見立てるとか、白い小石を水に見立てるといったこと。ぼくらは、石は絶対に富士山じゃないことを知っていて、それでも富士山ということにして眺めてみる、という態度を取るわけだ。
「この庭、◯◯っぽいよね」
比喩(メタファー)みたいな感覚がある。
でも、これは本来の「見立て」とは決定的に異なる。
石は絶対に富士山じゃないけれど富士山っぽい、という態度は西洋的なメタファーに近い。ところが、日本の見立ては、石は石でありつつ同時に富士山にもなりうる存在だ、ということになる。
ダメだ。全然伝わる気がしない。
言語化を拒む思想
元々、「見立て」は「存在の意味を固定しない」ための技術といえる。
料理が目の前にあったとして、それは「いい香りのもの」でもあり「おいしいもの」でもあり、「失われた命」でもあり、「自然と人の接点」でもあり⋯。と幾重にも意味が”溶け合って”いる。重なるというよりも、溶けているイメージ。
その状態を認めて、そのまま受け入れようとする”態度”が「見立て」という技術を生み出したのだ。
対して「言葉」というのは、溶け合った意味の中から一部を取り出して、価値観を固定するものだ。「これは〇〇だ」という強い力を持っている。
つまり、「見立て」を言語化すること=説明することは、本質的に無理がある。
だけどさ、感覚的に捉えるのはとても難しいでしょう。
だから、補助線としての”言葉による説明”があっても良いんじゃないか。と思って、言語化を試みているのだけど、なかなか難しい。語れば語るほど泥沼に沈み込んでいく感じがするよ。
たくさんあると思考が閉じる
さて、問題は”溶け合った状態”というやつをどう扱うか、という話だ。
うまく伝わらないからと言って、たくさんの言葉を重ねるとどうなるか。ある時点から、かえって何も伝わらなくなると思う。
たとえば、「秋」「夕日」「山」「鳥」と、単語だけを並べてみよう。いま、頭の中にどんな情景が浮かんでいるだろうか。太陽の色は白よりもずっと紅色にちかくて、周囲にいる人の数は少ない。もしかしたら鳥はカラスを思い浮かべた人が多いかもしれない。
たった4つの単語でしかないのに、ぼくらは自由に想像する。そして、面白いことに、同じ文化圏の人は似たような風景を思い浮かべるらしい。これが言葉の固定力かもしれない。
解釈は常に開かれている
「山」といったら、どんな風景を思い浮かべるだろう。富士山、赤石山脈、磐梯山、榛名山⋯北関東の人だったら丘みたいな場所を想像するかもしれない。「見立て」は、「それで良いよ」という態度なのだ。
前述の庭石なら、それは富士山にもなるし、静寂の象徴にもなるし、デザインとしての立体物でもあるし、「重そうだなぁ」と思われるだけの存在でもある。抽象的に言うと、「物体」「他のなにかの象徴」「鑑賞者の感情」が溶け合った存在として認めている、ということになる。
だから、日本文化では”説明”を拒む。解釈が開かれているということは、意味が自由に生まれることを許しているということだ。説明しちゃうと、意味を詰め込んだパッケージになってしまう。
だから。
和食では、料理の説明をしない。サボっているのでもなく、お客様を試しているのでもなく。料理を提供する側である亭主によって意味が固定されるのを良しとしていないのだ。
だからこそ。
献立をあらかじめ提示することもない。次の物語や物語の終わりが見えた瞬間に、眼の前の料理の世界が閉じるからだ。大切なのは、人と人、人と食、食を通じて感じる世界そのもの。そして、そういった関係性の中で、”その瞬間に立ち上がった体験”なのである。
「見立て」の核心は?
物事の意味が確定する前の状態をあえて残す技術。
世界を”わかりきったもの”にしないための作法。
ということになるのだろうか。
星空を見るときに、特に流れ星を探すときがそうなんだけど、”目を大きく開いて、どこかを凝視するのではなく全体に意識を広げる”みたいなことをする。これ、やったことない人には全然伝わらないけど、分かる人にはわかるはず。
この感覚で世界を全体的に鮮明に捉える、というイメージが根底にある。これが「意味が確定する前の状態」を見るっていうこと。
で、言葉や芸能、料理や工芸で表現すると、意味が確定していくのだけど、確定する「直前」でとめる。なんなら、他のものに見立てて意味をぼかす。そうやって、頑張って”開いた世界”を保ってきたのだ。
”見立ての核心とはなにか”についての、ぼくの見立てはこんなところ。
今日も読んでいただきありがとうございます。
”日本的な思考様式”ってなんだろうな。と思って、ちょっとずつ色々勉強しているんだ。和歌や芸能、食文化もそうだし、禅宗の無分別智や愚の概念とかも。いや、もうホントに難しい。
でも、ひとつだけ気がついたことがあってね。
ぼくらの文化は、とても”身体感覚”を重んじていて、世界全体を関係性で捉えようとしているということ。
これ、西洋哲学との対抗軸じゃなくて、補完関係になるんじゃないかな。
どうなんだろう。どう思う?