琵琶湖の水とめたろか。というジョークがある。滋賀県民が京都や大阪の人とやり取りする中で使われるのだそうだ。京都や大阪の水は琵琶湖を水源としているからね。ウィキペディアに立項されているのには驚いた。
現代では出来もしないし、一市民が吠えたところでどうにもならないのだけれど、もしかしたら歴史上の権力者が本気になったら可能性はあったのかもしれない。権力の中心が京都にあったから実現しなかったのだろうけれど、完全に対立していたらどうなっていたかわからない。
現代の世界情勢を見ると、なんとなくそう思えてしまう。結局のところ水やエネルギーを独占しているところの発言力は強くなってしまうのだ。ただ、自然に恵まれた場所に偶然生まれた。それだけのことなのに。古代メソポタミアでは、やはり水や土壌、それから森林資源の多いところが勃興して古い勢力を凌駕してきた。人口が集中して木材が足りなくなり、土壌が枯れてくると、また勢力が入れ替わってきた。
それほどに人間は自然のエネルギーに依存しているというわけだあ。
先日、厨房の冷蔵庫がひとつ故障した。ちょっと特殊な冷蔵庫で、庫内温度を零度以下に設定しても食品が凍らないというもの。そのおかげで、肉や鮮魚などの保存期間がかなり長くなっているのだ。
定休日を挟んで、冷蔵庫を開けてみると作り置きの食材が腐敗していた。魚も肉も、当然ながら劣化が進んでいてかなりのロスが発生してしまった。一時的な停電ならば良かったのかもしれないけれど、数十時間の機能停止は食材の保存が難しくなる。テクノロジーも故障したり、電気が止まってしまえば役に立たない。そんなことを痛感させられた。
電気の供給止めたろか。となったら一大事。シリーズ「冷やす技術の歴史」でも話したと思うけれど、2週間もあれば東京は機能しなくなると言われているらしい。照明はもちろん、水を組み上げるポンプも空気の循環も、輸送も機能不全となる。そして、数千万人の腹を満たす食料も揃えることが難しくなる。
食品には、使用期限もあるし保存方法もデリケート。当たり前のことなんだけど、もう少し考えなくちゃいけないのかもしれない。と思うのは、どうやら人間という生き物は一極集中が好きらしいからだ。
例えばエネルギーなら、石炭が良いとなったら石炭に集中し、石油が良いとなったらそちらに集中する。食べ物でも、麦が良いとなれば麦に傾斜して、米が良いとなれば同様だ。世界の食用植物の種類が釣鐘状のグラフを描くように収斂しているのを見れば、そう思えてくるのだ。
便利で効率の良いものに集中しすぎた結果、長い時間をかけて多様性が失われていく。そして、効率の良いものが何かしらの理由で利用が難しくなったり量が現象したりすれば、代替品が必要になるのだが、その時には入れ替えるための労力が発生する。あらかじめ、いくつかの方法を並行して利用するようにしておけば、一つが機能不全に陥ってもすぐさま問題にはならないのに。
とは言っても、だ。非効率で不便なものを並行して利用し続けるのも大変。一人ひとりの日常生活や経済を考えれば、もちろん効率がよく便利で安価なものに傾斜する。エコだけど高いもの、環境負荷が高いけれど安価なもの、その中間に位置するもの。なにかを購入しなくちゃならないときに、ぼくならばどれを選ぶだろうか。商品にもよるのだろうけれど、必ずしも高くてもいいからエコなものを選ぶとは限らない。
今日も読んでくれてありがとうございます。もう少し続きを書こうと思うので、続きはまた明日です。それにしても、琵琶湖ってインフラでもあるけれどプライドの対象なんだな。よくわからないけれど、静岡県民も富士山にプライドがあるもの。スゴイものが地元にあるっていうだけなんだけど。