いろいろやっているから、自己紹介のときに困る。個別具体に説明すれば長くなってしまうし、かといって一言でまとめようとすると、うまく出来ない。先日友人から聞いた話。ざっくりとまとめると経営者なんだろうけれど、よくわかる。流動性があって雑多な業務の一つ一つに向きある。みたいなところがあるからね。
ぼく自身も、「なにやっている人ですか?」と問われると、戸惑うことがある。一応料理人だし、一応経営者だし、一応ポッドキャスターだし。わざわざ「一応」とつけて、ぼやかしているあたり、自分でも不思議な挙動をしていると思う。
人って、いろんな側面があるのが普通。履歴書を書くときに、一貫性があるほうが良しとされる風潮はいつからあるのだろう。あっちへフラフラ、こっちへフラフラなんてことはよくあるじゃない。歴史的にも、医師であり思想家であり歴史家であり発明家である、なんて人も結構いる。歴史に名を残すような人だから、それだけマルチな才能を発揮できたとも言えるだろうけれど、そういう生き方が普通だという社会があったと考えられる。
社会の階層によって、そのマルチ具合は様々だったかもしれない。古い時代は、知識階層は、ある程度豊かな階層でなければ得られなかった。農奴とよばれて土地と職業に縛られていた人達もいたが、一方で織物屋でありながら顕微鏡を開発するような人も登場している。雑な知識で判断してしまうのは早計だとは思うけれど、よほどの制約がかからない限り、マルチな考え方をしていてマルチな才能を発揮するのが一般的なのではないかと思う。
例えば、まちづくりの会議だったら、ぼくはまちづくりに詳しい料理人になる。マーケティングに理解があって、彼らの言語がわかる料理人になる。日本料理の料理人が集まれば、料理や業界に詳しい営業マンになる。様々なスタイルの料理人が集まっていれば、ぼくは会席料理の人にもなる。
状況に応じて「◯◯ではない者」としての振る舞いをする。自然とそうなっている。だから、その集団でしか顔を合わせない人にとっては、ぼくはそういう人。立場が変わると、それに合わせた発言をすることになるんだけど、別の集団で同じ人に会ったときに、この前と言っていることが違うと言われてしまうこともある。ひとつの思想から生まれた発言が、立場を変えて伝えようとするとき、矛盾があるように見えるということなんだろうか。それとも、ただただぼくがブレているだけなんだろうか。
もし前者だとしたら、時々聞く「◯◯という人はブレている」「コロコロ変わる」という批判は、表面的ということになるのだろうか。少なくとも本人にとってはブレていないのかもしれない。たまたま今の社会では受け入れられにくいのか、それとも人間ってそういうものなのか。よくわからん。
ともあれ、日常レベルではいろんな顔を持つのがぼくらだ。職場でも「幼児のパパ」の顔では困っちゃうだろうし、家庭で仕事人のままだったら家族も息が詰まる。分人と言うらしいのだけれど、マルチとか分人という表現そのものが現代社会がそうではないことの現れだろうな。それが当たり前だったら、言葉が必要ないかもしれない。
レッテルを貼ると、イメージがそれに固着してしまう。ということもあるのだけれど、でもやっぱり自己紹介のときには便利なんだよね。聞いたらパッと理解できるとか、イメージが湧く。思い出してもらえて、仕事につながるなんてこともある。全部を表現しようとしないのが良いのかな。
今日も読んでいただきありがとうございます。自己紹介の肩書ってこまっちゃうよね。という話だったのだけど、自分が何者かって話になってしまった。そんなの答えが出るわけ無いよね。答えなんて出ない。というのが、案外答えだったりして。