20年以上前のことになるけれど、2年ほどアメリカに住んでいたことがある。西海岸のカリフォルニア。住まいはノースリッジ、パサディナ、最後はロサンゼルスの南側へと移していた。あまり何も考えていなかった10代の終わり頃。何をしていたのかというと、大して何もしていなかった。
大学や語学学校へと通うために学生ビザで滞在していたものの、ダウンタウンのリトルトーキョーでバイトをしていた。もちろん、イミグレーションに見つかれば国外退去が命じられるわけだが、そういった存在はぼくばかりではなく、ちらほら見かけられるような状況だった時代のことだ。
その日は学校の授業もなく、朝は海でサーフィンをして帰ってくると、夕方からバイトに行くまでの時間を持て余していた。本を手にとっても、あまり読む気にもならず、外から聞こえるメキシコ音楽をぼんやりと聞いていた。ふと、窓の外を見ると、メキシコ系の人が道路で車を洗っている。天気がよく気持ちが良いのだろう。そんな景色に誘われるように外へ出た。
アパートを出ると、車を洗っているメキシコ人と二言三言声を交わし、思い立ってそのままダウンタウンへと向かうことにした。いつもならば車に乗り込むところだけれど、歩いていくことにしたのだ。片道2時間ほどだろうか、帰り道のことが少々気になったけれど、それは後で考えれば良いことだ。日本のように治安が良いわけではないので、もう少し夜の移動について慎重になるべきだろうけれど、若さゆえの無神経さがブレーキを外した。
車社会。カリフォルニアは、誰もが車で移動することを基本に成り立っている町である。道幅も広く、平均速度も早い。車であればあっという間の距離であっても、歩くとなると想像以上に時間がかかる。車で15分の距離ならば1時間は覚悟しなくてはならない。
車に載っていると、あっという間に流れ去っていく景色が、その時は体を包み込んでいる。景色は流れ去るものだと思っていた。いや、意識的にそうした感覚を持っていたわけではないけれど、日常で目にする景色は流れ去るものだったのだ。今は、その景色の一部に自分自身がある。
どこかで車のタイヤがバーストしたような音がした。車検のない国では、日本と比べてバーストなどの事故も多い。その音が響くと、一瞬で身をかがめる人たちの姿も日本では見られない光景だ。驚くことに、ぼくも身をかがめるようになっていた。社会や世界の認識は、身を置く環境に大きく影響を受けるのだろう。理屈ではなく、身体感覚。そんな思いが頭をよぎる。
しばらく歩みを進めていくと、いつのまにか目を細めて歩いている自分に気がつく。キャップを被っていたものの、西海岸の光は強すぎる。サングラスをかけずに外出したことを少し後悔した。
周囲を見渡すと、オフィスビルが立ち並び、建造物の林は太陽に向かってそびえ立っている。その隙間に、灌木のような古い雑居ビルと、街角で新聞や雑誌を売るスタンドがひしめき合っている。裏路地からは、ある種独特の匂いが漂っている。お世辞にもきれいな街とはいえない。
眩しさを言い訳にして、無意識に目を細めていたぼくは、少しばかり都会の異臭に目をしかめた。なのに、そこまで嫌な気持ちでもない。まるで映画の中に迷い込んだような感覚があり自分ごとではないようだ、それと同時にちゃんと自分の体もその世界の一部であるという感覚もあった。
キャップのつばをつまんで、少し上げてみる。なんだか、とても明るい。まるで深呼吸するようにして、目を開いて光を思い切り受け取ってみる。雑踏を歩く人々の姿や、駆け抜けていく車、路地裏に見えるゴミ箱。それらが一斉に体の中に飛び込んでくる。いまは、流れ去っていくのは車の方である。キャップを外して、もう一度目を開いたら、今度は空気を思い切り吸い込む。
ぼくは、その世界と一つになったような気がした。そしてこう感じたのだ。
世界はこんなにも美しい。
今日も読んでくれてありがとうございます。随分前のことだし、ほんの一瞬の出来事だったのだけれど、映像として脳裏に焼き付いているんだよね。このときの感覚が、今のぼくに影響を与えているんだと思う。山にいかなくても、海にいかなくても、ぼくたちは身体感覚を通して世界とつながっていることを感じられる。都会の雑踏の中にいると、無意識にフィルターを掛けて周囲の世界を外側に押しやっているんじゃないだろうか。受け取ってみると、案外見えていなかったものが見えるかもしれないよ。