台風がやってきては過ぎ、少しずつ夏に近づいていく。稼働中の厨房は、かじかむ指先を温めながら包丁を持っていたのが半年前のことだとは想像もつかないほどの気温になる。台風と聞くだけでも嫌な思いをされる方々もいるし、そうでなくても海の食材を手に入れられなくなるという悩みのタネでもある。一方で、海の幸を届けてくれる漁師たちにとっては、そろそろ台風が来て欲しいと思うこともあるそうだ。海水をかき混ぜて界面近くの水温を下げてくれるからだ。でなければ、夏の暑さを避けたい魚たちは、深いところに潜ったまま出てこないのだという。
この10年ほどの間に、漁場の環境が大きく変わったという話を聞くことがある。言うまでもなく温暖化の話だ。静岡県沿岸ではめったに見られなかったはずの魚、例えば九州以南に集中していたはずの大型魚がひょっこり顔を出すようになった。昨シーズンもふぐは沿岸を大きく離れ、以前ならばほとんど漁獲のなかった東北以北での水揚げが多く見られた。
そういえば、静岡県で伊勢海老が豊富に取れるようになったのはいつ頃からのことだろう。伊勢海老というのは、その名の通り紀伊半島でよく捕れた魚介である。父の話を聞くと、若い頃は静岡で目にすることは少なかったという。最近の話ではなくても、こうした変化は少しずつ起こっていて、気がつけば当たり前になっていくということなのだろう。
天気予報では「平年並み」という単語をよく聞く。平年に比べて何度高いなどという表現も珍しくなくなっているのは、それだけ気温が上昇しているということなのだろう。1℃くらいどうってことない、と錯覚してしまうのだけれど、よくよく考えてみると結構大きな変化である。平年というのは、直近10年間の平均という定義なのだそうだ。だから、毎年「平年並み」はちょっとずつ変化する。ここ四半世紀は上昇傾向なわけだから、毎年平年並みは上昇し続けているのだろう。ということは、今年「平年より1℃高い」と表現するのは、5年前ならば「平年より4℃高い」ということだってありうるわけだ。
人間というのは、あまり古いことを覚えていられない生き物だ。覚えていられると思っていても、結構生活の中の細かいことは10年もたつと忘れてしまう。10年間続いてきたことは、まるでそれ以前からそうだったように錯覚してしまうこともある。ガラケー全盛期を過ごした私達ですら、もう記憶が薄れかかってきている。スマホなしで待ち合わせした記憶はあるけれど、今同じことをしようとすると不安感に包まれるのはぼくだけじゃないだろう。
なんとなくズレ続けていくことに慣れていて、はたと気がついたときにはそれが大きくなっていることに驚く。そういうのはあちこちで見られる。まだ5月だというのに真夏のような暑さだ。季節がズレてるんだ、と。
でもちょっと考えると、これも不思議な話。暦があって、そのモノサシがあるからズレていると認知している部分が大きい。そもそも、自然というのは変化し続けるものだという前提であれば、ある一定期間の平均値をもとに作られたモノサシはいつか合わなくなるというのは当たり前なのかもしれない。なにも、季節は公転周期だけで決まるわけじゃないわけだから。
思考があちこちへと遊んでしまったが、なんとなくぼんやりと思いを馳せるのは「変化とその認知」のこと。これはこういうものだ、と今思っていても、それはやがて変わる。数年程度では大した違いを認知できないのだけれど、もっと長い時間が過ぎてみると大きく変化していたことを知ることになる。そんなものじゃないかな。
今はまだラーメンも餃子もカレーもナポリタンも「国民食」ではあるけれど「和食」の仲間には入れられないことが多い。ぼくなんかは、もう和食でいいんじゃないかと思うんだけど、まだまだ微妙なラインにあるよね。いつか、こういった「中華」や「洋食」が、伝統的な和食になる日が来るのだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。豆腐が日本にやってきて、いつしか庶民の定番の食になっていったという話をしたよね。ふと思ったんだ。もしかしたら、当時の人達が見た豆腐って、現代人にとってのラーメンとかカレーのような存在だったんじゃないかって。どこにもそんな記録はないし、そんな考察もないのだけれどね。