予測誤差 2023年4月8日

最近は、あまり自分の車に乗る機会がなくて、気がついたらバッテリーがあがってしまっていた。維持費もかかることだし、もう所有していることに意味は無いのかもしれない。手放せばよいのだけれど、それなりに愛着があるものだから、またクルマに乗る機会を作ってドライブにでも出かけようかなどと妄想している。

ぼくの車と、妻の車。それから、店で保有している車には、それぞれにクセがある。クセというのが正しい表現なのかわからないのだけれど、例えば加速の具合だとか、ブレーキの効き具合だとか、ハンドルの効き具合はそれぞれに違いがあると感じている。

ぼくの感覚では、ぼくの車が一番素直なハンドリングだと思うのだけれど、それもまた個人差なのだろう。慣れ親しんだ感覚というのは、慣れのような形で体に染み込んでいる。だから、ぼくがこのくらい曲がりたいと思って、それに応じたタイミングと量でハンドルを回すと、それに見合った曲がり方をしてくれると思いこんでいる。

どの感覚に慣れているかによって、そのハンドリングが良いと感じるかどうかに通じているのかもしれない。

今年、早くも地物の鱧があがった。昨年の秋以来の鱧である。鱧は骨が多いので、骨切りという他の魚ではあまりやらない作業があるのだけれど、それをやるのも久しぶりのことだ。毎年、一番最初の骨切りは、感覚を取り戻すのに少しばかり時間をかけることになる。経験を積むうちに、その微調整の時間は少しずつ短くなってきて入るものの、それなりに調整が必要なのだ。

鱧の骨きりというのは、たくさんある骨をその身とともに細かく切るのだけれど、その際には、皮の厚みの半分程度まで包丁を入れる必要がある。この繊細な力加減をコントロールするところにも技が必要なのだ。薄さや、身を崩さない包丁技術とともに、薄皮一枚残すという感覚を取り戻すための調整でもある。

人間の感覚というのが、とても鋭敏だと感じるとともに、慣れというものに驚く。ぼくは、それを鱧切りに感じることがある。専用の骨切り包丁は、もちろん丁寧に砥いで切れ味が良いに越したことはない。なのだけれど、いつもの切れ味よりも良すぎると皮を切り落としてしまうことがある。普段の感覚になるべく近づけるために、常に一定の切れ味を保つのだ。だから、毎日毎回丁寧に包丁を砥いでおくわけだ。

違う包丁を使えば、それに身体感覚を合わせていく。少しばかり時間をかけることになるけれど、ちゃんと技術を習得していれば合わせていくことが出来る。というところが、なんだか車のハンドリングの話に似ているような気がしている。

だいたいこのくらいだろう。という言葉や数字に表しにくい微妙なさじ加減。それは、普段の行動の繰り返しによって体に染み込んだ「慣れ」だ。それをもとに、「予測」をして体を動かしている。といった具合だろうか。予測に誤差があると、違和感を覚える。骨切りのように繊細なコントロールを求められる作業ならば、失敗することもある。

予測誤差という考え方は、とても興味深い。

そう言えば、味についても似たようなことがある。よくある例え話なのだけれど、透明のペットボトルに薄めた蕎麦つゆを入れて、タイミングをはかってドリンクとして手渡す。何も知らずにそれを飲んだ人は、驚くか場合によっては吐き出すことがある。なんだこれは!ということになるのだそうだ。というのも、飲んだ人は、ウーロン茶か麦茶だと思って口にしたから。予測していた味とあまりにも違うと、人間はびっくりして「マズイ」と判断してしまうことがある。

改めて「蕎麦つゆだ」と言われてから飲むと、美味しいということがわかる。

同じ様に、ヨーロッパの人たちの中にはうなぎの蒲焼が苦手だったり、あんこを気持ち悪いと感じる人がいる。これは、うなぎや豆を「甘くして」食べるという経験が無いから。よくよく考えればわかることだけれど、世界中の豆食文化の多くで、豆はしょっぱくして食べるものなのだ。日本人の感覚に無理やり合わせるならば、お米を砂糖水で煮たようなものかもしれない。それだけで、なんとなく気持ち悪いと感じてしまうかもしれない。

しょっぱいはずだと「予測」していると、甘いという大きな「誤差」によってびっくりしてしまう。そういうことは、世界中の至る所にあるのだろう。それが文化の違いの要因のひとつになっているのだろうか。

「慣れ」からくる「予測」が、ぼくらの生活を支配している。もしかしたら、社会や文化も同じようなものかもしれない。それを慣性の法則と呼ぶこともあるだろうし、思い込みと呼ぶこともあるだろう。

僕らの常識は、概ねこうしたことで成り立っているのだろうと思う。それを悪いこととは思わないのだけれど、時々は思い込みの外側に出てみて、自分の生活を客観的に眺めてみるのも面白い。

今日も読んでくれてありがとうございます。常にメタ視点でいる必要はないと思うんだ。時々くらいでいい。どちらかというと、社会生活の中に埋没しているときには、慣れと予測と誤差という概念とどう付き合っていくのかがポイントになるんじゃないかと思うんだよね。誤差があったときに、例えば面白がれるとかさ。

記事をシェア
ご感想お待ちしております!

ほかの記事

エンバクについて、ちょっと調べたり考えたりしてみた。 2023年5月29日

エンバクというのは不思議な植物だ。人類が農耕を始めた頃は、まだただの雑草だったらしい。まぁ、人間が利用している食用植物は、ほとんど雑草だったのだけれど。エンバクが面白いのは、大麦や小麦の栽培が始まった後の時代でも、ずっと雑草。つまり、麦畑では邪魔者だったわけだ。...

食産業の未来を考える。たべものラジオ的思考。2023年5月27日

もしかしたら以前どこかで話したかもしれないのだけれど、現代の食産業は、産業革命期のアーツアンドクラフツ運動の時期に似ているののじゃないかと思っている。簡単に言うと、産業が近代化した時にあらゆる物が工場で機械的に生産されるようになった。安価でデザインを置いてきぼりにした家具などが大量に出回るようにな...

「ホウレンソウ」で時間をかけるのは相談。 2023年5月26日

「報告、連絡、相談」。通称「ホウレンソウ」は、社会人になると一番最初に言われることだろう。もっと前の学生時代から言われているかも知れない。たしか、ぼくが企業に就職したときもしつこく言われた記憶がある。で、少し思い出したのだけれど、けっこう無駄も多かったという気もしている。...

「食事」という人類の営みの歴史から見る「作法」と「矜持」 2023年5月25日

時々目にすることがあるのだけれど、飲食店によって独自のルールを決めているという記事や書き込みがある。同じく飲食店を経営している身であるから、気持ちは分からなくもない。けれども、独自ルールが特徴的であるということが記事になるような場合、少々やり過ぎではないかと思うケースが多いように見える。...

食べ物と産業と歴史。これからの未来のために。 2023年5月24日

たべものラジオは、食のルーツを辿る旅のような番組だと思っている。その特性として、歴史という意味ではとても長い時間軸でひとつの事象を眺めることになる。ひとつの時代を切り出すのではなくて、紀元前から現代までの長い時間を、ひとつの視点からずっと追っていく。そういう見方だ。だから、ひとつのシリーズがとにか...