ポッドキャストにしてもユーチューブにしても、学習系のコンテンツの人気が伸びている。今まで通りのバラエティも好調ではあるのだけれど、そんな中でもじわりじわりと注目を集めているらしい。今に始まったことではないだろうけど、近年の傾向だという。
そう言えば、テレビでもクイズ番組は以前から人気が高い。時代によってその内容は変化していて、ビデオの続きはどうなるかというものや、ゲーム性の強いもの、脳トレに相当しそうなものや、純粋に知識や知恵を扱ったものなど様々だ。他にも、学びにつながるコンテンツはたくさんある。改めて考えると、人間は学ぶことが楽しいのだなと思うんだ。学ぶことそのものが、エンタメなのだ。
なぜ、学校の勉強はつまらないのか。大人になってからの学びは楽しいという人がいる一方で、勉学を生活の中心に置く学生たちの多くは楽しいと感じていない。成績が良い子供を観察していると、学ぶことそのものが楽しいというケースと、楽しくはないけれど頑張るというケースに分かれるように見える。実際のところはどうだろうか。
思うに、学校の勉強がつまらないと感じるのは、学びが手段そのものだからじゃないだろうか。いや、手段でもいいのか。例えばサッカーが大好きだという人は、サッカーをうまくなりたいがためにサッカーの勉強をする。それは、身になるし楽しいものだろう。となると、学びが手段だとしても目的が違うのかもしれない。
学校のお勉強。それは、成績を上げるため、テストで高得点をとるため。高校や大学受験に受かるため。この目的設定が面白さを減退させているのかも知れない。小学生くらいだと、まだその傾向が薄いから、中には純粋に学びを楽しんでいる子もいそうだが、歳を重ねるに連れてそうした人は減少するのかもしれない。なんのデータも見識もなく、個人の感覚でしか無いのだけれどね。
こんな話を聞いたことがある。子供にゲームをやめさせたいなら、ゲームを義務化して報酬を発生させれば良い。ある家庭で、子供がビデオゲームばかりしていて、ちっとも勉強もしないし他の事柄に興味を持たないということがあるとしよう。実際にそういう家庭はたくさんありそうだ。
そこで、毎日ゲームを2時間プレイしなければならないというルールを設定する。さらに、その結果を毎回報告させることにする。報告に対するフィードバックを受けたら、それから夕食となる。最初の数日は喜んでゲームをしていた子供も、そのうち変化が現れる。つまらなそうにゲームをしているのだ。やっていることは同じだし、報告にしたって、義務化される前から熱心に家族にゲームの話をしていたことと大した違いはない。とうとう、本人の口からゲームが楽しくないという言葉が漏れるようになったそうだ。
ちょっと調べてみると、心理学の実験にも似たようなものがあるらしいことがわかった。パズルが好きな大学生を集めて、報酬ありでパズルを解くグループと、報酬なしのグループに分かれてパズルを解くだけ。3日間続けた所、報酬ありのグループは意欲の低下が見られたという。
アーティストにも似たようなことがあるのかもしれない。お金のためだ、という意識が強くなると音楽なり絵なり造形なりに向き合う意欲が低下する。お金を稼ぐことにつながるとしても、それはあくまでも結果であるという意識が必要なのだろうか。音楽を楽しんでいたら、たまたまそれを同じように楽しんでくれる人がいて、結果的に報酬を受け取ることが出来た。この意識を強く維持していないと、曲が作れなくなってしまうということがあると聞いたことがある。
手段の目的化。これはビジネスの世界では悪手のひとつだと語られることが多い。けれども、それは一側面でしかないのではないだろうか。なにしろ、手段に熱中しているときが一番楽しいのだから。そして、日本の手業は手段を目的化してしまった結果であることも多い。よく釣れる疑似餌を創作していたはずなのに、いつのまにか疑似餌を作ることの方に楽しみを見出してしまった人。器に飾りをつけただけのつもりなのに、いつのまにか装飾に全力を注ぎ続けてきた家系。襖や屏風の装飾は、ついには絵師の一派を生み出した。そういうものなんだろうな。
今日も読んでくれてありがとうございます。福沢諭吉は実学こそが重要であると学問のすゝめの中で説いている。が、それと同時に教養も重要だとしている。実用的なことを疎かにしちゃうと、それは社会活動に支障をきたすんだけど。同時に、直接的には役に立たないような教養とかアートといったものも、人間という生き物には必要なのかもね。