今日のエッセイ-たろう

料理を売っているのに、なぜ飲食店はサービス業なのか

飲食店はサービス業と呼ばれる。だけど、なぜサービス業なのだろう。あまりにも当たり前に語らていて気が付かなかったが、よく考えてみると、他のサービス業とはちょっと違う気がしてきた。

例えば、美容室は「髪を切る」という技術を提供しているし、病院も診療や治療という技術や知見を提供している。映画館は、映画を見るという時間と場所を提供していて、学習塾は学びという行為を促進することを提供している。どれもこれも、提供されるものは「無形」なのだ。

もちろん、飲食店でも「接客」や「場」の提供を行っているという意味ではサービス業でもあるわけだ。けれども、一般的に消費者は「食べ物」を求めて店に行くのだから、「髪を切ってもらう」ために美容室を訪れるのとでは、感覚が違うような気がしている。

サービス業とは一体なんだろう

そもそも、サービス業という分類の定義がはっきりしない。

受益者の変化をもたらす無形のもの。という定義を聞いたことがある。髪を切ってもらうことで、確かに髪型は変わる。授業を受ければ、それ以前よりは賢くなるだろう。鉄道やバスならば、物理的に移動することができる。

この定義に合わせるなら、飲食店は「お腹がいっぱいになる」という変化を得られるということなのだろうか。でも、それは無形のサービスではなく、料理というモノを得たからだろう。服を買う、車を買うというのと同列ということになるのじゃないだろうか。

サービス業には、4つの基本特性があるらしい。
無形性:形がなく手で触れられず在庫として管理できない
異質性:提供者、受益者によって、また状況によって品質が一定とは限らない
同時性:サービスの提供と消費が同時に起こる
消滅性:提供されなかったサービスは保存できず、その時間がすぎると失われる

これまた飲食店には当てはまらない。というか、この特性はどのサービス業にも常にあてはまるものでもないらしい。そういう傾向があるよね。くらいの捉え方で良いのかも知れない。

いろいろと研究があるらしく、ちゃんと勉強すればそれなりに定義がはっきりするのかもしれない。が、それにはかなり時間がかかるので、またいずれじっくりと勉強してみようとは思っている。

飲食業がサービス業であるという感覚

学術的定義はさておき、私たちは「飲食店はサービス業だよね」ということでだいたい合意している。というか、私と同じ様に疑ったことがないのじゃないだろうか。
そのくらい自然なことだと受け入れているわけだ。

ということは、「飲食店はサービス業ではない」のではなく、「サービス業と呼ぶに相応しいなにかがある」と考えたほうが良さそうだ。

飲食店が持っている無形の価値は何だろう

接客はわかりやすい。親切で、的確な接客は心地よい。気持ちも変わるし、料理を運んでくる前と後では状況が変わっている。保管できないし、品質の評価は一定ではないし、提供と同時に消費される。

場の設えはどうだろう。オシャレで快適な部屋は、食事をする気持ちを高めてくれる。シンプルに言えば嬉しい。これは、映画館と同じ様に考えればよいのだろうか。大きな画面、迫力のあるサウンド、快適な椅子と空調などは、映画そのものの良し悪しとは別のサービスである。

映画に例えるならば、食べ物は映画そのものに該当する。となると、料理人は映画の作り手ということになるのだろうか。それなら、料理人は生産者であって、サービス提供者ではないということになる。ひっくり返して言えば、映画製作者は生産者であって、サービス提供者ではないということだ。どちらも「ものづくり」が仕事。

飲食店は、映画館の中で映画を撮影し続けているようなものなのだろうか。いや、飲食店のそれは、原料があって、それを加工して販売しているのだから加工業といえる。同じものづくりでも、少しばかり毛色が違う気がする。

料理人の持っている調理に関する知見や技術、それからチームワークも無形の価値。もし、美容室のように「客が材料を持ってくる」のであれば、これも無形のサービスということになるだろう。

なかなか、ややこしいことになってきた。
しかし、どうやら飲食店の価値の本質に少しばかり近づいたのじゃないだろうか。

私たちは、飲食店に対して「出来上がった料理」だけを期待しているわけじゃないのだ。無形の資産に対して何かしらの価値を感じている。だから、サービス業であると感じているのかもしれない。

私たちは、料理を買うためだけに飲食店に行っているのではないのだ。

価値の評価

あれこれと考えてみたけれど、グルっと回って当たり前のことに返ってきた感じがする。そう、当たり前なのだ。

無形のサービスは生産性がはかりづらい。本当に価値を測ろうとすれば、学習塾なら「どれだけ学力が伸びたか」、美容室なら「客がどれだけ満足する状態になったか」を見たくなる。けれど、これは簡単には数値化できない。

クオリティよりも量で測られることのほうが多いのは、クオリティを計測するのがとても難しいからだろう。前述の4つの特性にもあったように、クオリティは提供者だけでなく客によっても変化しうるからだ。平たく言えば、自分にあっているかどうかという主観が評価になる。当然、他の人には最高のサービスでも、自分にとっては平凡なサービスである、ということがあり得る。

皆が良いと言っているから良いのか

これは、サービス業に限らず大きな論点になりそうだ。ほとんどの人にとっては素晴らしいものであっても、私にとってはそうではないということは起こりうるのだけれど、それを明確に判定できる人は少ない。せいぜい、今この瞬間の私にとっては、という判断をするのがギリギリのところだろう。
だって、9999人の人がおいしいと言っている料理を食べて、自分だけがマズイと思っているとしたら、私なら自分の舌を疑うだろうから。それでも自分の舌を信じられるようになるには、味覚か己の鉄の心のどちらかを強靭に鍛えなくてはなるまい。

一方で、サービス提供者からしても、なかなか難しい問題だ。仮に、料理人がおいしいと感じていなくても多くの客がおいしいと言って食べてくれるのであれば商売としては成立する。逆に、どれほど料理人が「これは最高のできだ」と思っていても、客が料理の良し悪しを判断できなければ凡庸な価値としか認められない。

これは、どんな商売でも同じだと思う。ただ、サービス業は修正が難しい。なにしろ、サービスという実態のないものは、個人の技術や人間性に強く紐づいている場合があるからだ。だから、サービスそのものを仕組みとしてデザインしようという考え方が生まれるのだろう。

だけど、困ったことに消費者はわがままなのだ。デザインされた均質なサービスが社会に充満してくると、今度はそこから外れた個性揺らぎに勝ちを求める人が出てくる。

結局のところ、どんな風潮になっても、その時々の状況にあわせて柔軟に対応して価値を調整していくというのが飲食店のサービス大きなの部分なのかもしれない。そういう意味で料理人というのは、やっぱりサービス業的な側面があるのだろう。

今日も読んでいただきありがとうございます。

今回は、久しぶりに思考が迷走した感じがあるなぁ。特に答えもなく、何か道標のようなものがあったわけでもなく。素朴な疑問について書きながら考えを進めてみたんだ。結果として、なにか結論のようなものにたどり着いたわけでもなければ、ヒントを得た気もしない文章になってしまった。
まぁ、読んだ誰かが何かに気がつくかも知れないし、こうして考えてみたという事実も次のステップに繋がるかも知れないということで、とりあえずは世に出しておこう。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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