ご飯を食べる時、飯茶碗にご飯粒を「残す派」と「残さない派」があるらしい。たまたまネット記事で見かけたのだけど、そんなのに「派」があるとは思いつきもしなかった。残さないのが当たり前。そう思い込んでいたからだ。
記事についていたコメントの中に、興味深いものがあった。
そのコメントを書いた方は「残さない派」で、残す人をみると「あぁ」と思ってしまうという。では、なぜ自分は「あぁ」と感じてしまうのだろう。考えても納得の行く理由が思い浮かばないそうだ。
残す派の主張
「◯◯派」というからには主張があるのだ。
「残す派」の主張を見てみると「みっともない」「合理的ではない」という声が多いようだ。
「みっともない」というのは、「貧乏くさい」という意味も含まれているらしい。言わんとすることはわからなくもないけど、その価値観には既視感がある。「昭和の成り金」といったところだ。
「合理的ではない」というのはどういうことだろう。
米一粒を残そうと残さなかろうと、摂取カロリーにほとんど差はない。にも関わらず、小さなひと粒をかき集める行為に時間をかけるのは無駄である。そもそも、釜やしゃもじにもご飯粒は残っているのだから、飯茶碗の一粒に固執しても意味はない。
中には「残す人を批判するのは感情論であって、合理的ではない」とか「飯を平気で残せる人ほど上に行く」といった主張もあった。
残さない派の主張
私の感覚では、日本人の大多数は「残さない派」だ、と思う。ざっと書き出すとこんな感じ。
もったいない。
お米やお米を作ってくれた人に対して感謝の気持ちがある。
残すほうがよほどみっともない。育ちが悪そう。
米を残すと目が潰れると言われて育った。
ガストロノミーの視点
私も「ご飯粒を残すと目が潰れるよ」「食べ物を粗末にするな」「一所懸命作ってくれた人がいるんだから」と言われて育った。これらの言葉は、ガストロノミーという視点に立つととても奥深い。
今目の前にある食べ物の来歴に思いを馳せることになるからだ。
西洋の「ガストロノミー」も、日本の「食べ物に対する向き合い方」も、目の前にある「モノ」を通じて、背景にある繋がりについて思いを馳せようとする視点がある。これが習慣化すると、目の前のものだけでなくその背景を感じる心が育つ。つまり、視野がぐっと広がるのだ。
残す派の人達が言う「合理的」というのは、「自分と目の前の食べ物」の関係だけに着目した場合の合理だろう。一方、モノを介した「世界との関係性」に着目した場合は、合理的に考えた最適解が変わってくる。
例えば、「世界との関係性」を感じることが習慣化してしまえば、他者への関心が思いやりにつながったり、ものを大切にして浪費しなくなったりするかもしれない。イチイチ頭で理屈を考えなくても、体が自然に反応する訓練だと思えば、食事という「何度も繰り返す行為」の中で反復することは「極めて合理的」と言えるだろう。
実際には、ご飯を残したところで目が潰れるなんてことはあり得ない。けれども、理屈を理解できない子どもに「行動様式を身体化させる」ための物語なのだ。
つまり、「合理性とは”どこまで計算に入れるか”で答えが変わる」ということがポイントになる。ガストロノミーの視点は、視野を広く持つことの価値を考えさせてくれるだろう。
飯を平気で残せる人ほど上に行くのか?
面白い意見なので取り上げてみよう。
食べなきゃもったいないと執着している人は、細かいことにエネルギーを費やす傾向がある。限りある自分の時間と体力を、より大事なことに回せるようになったほうが良い。
というのが理由らしい。確かに、一理あるかもしれない。
「上に行く」という言葉をどういう意味で使っているのかはよくわからない。もし出世という意味だと反証が多すぎるから、違う意味で言っているのだろうか。それはさておき、「細かいことにエネルギーを費やすこと」は、合理的ではないのだろうか。
細かいことにエネルギーを費やす人々
私たち料理人は、とても細かいところにエネルギーを使う。盛り付けだって、ミリ単位でバランスをとるなんてことは日常である。料理に限らずものづくりも似たようなところがある。実際に数値で測るわけではないが、感覚的に「ほんのちょっと違う」みたいなところでバランスを取ろうとする。そうした細部への配慮は、日本の伝統工芸などでも価値の一部になっている。
知り合いの自動車整備士に聞いたのだけれど、日本車は余分なものが少ないと感じるそうだ。
例えば、車体とタイヤをつなぐパーツが全て均一に揃っていれば、丁寧に取り付ければきちんと水平になる。ところが、誤差が大きい場合は、水平に保つための別のパーツが必要になる。整備の手間も増えるし工賃がかかる。たったひとつのパーツのせいで、色んな人が迷惑なんだよなぁ。とこぼしていたのが印象的だった。
世界のどこまでを関係者と見るか
「合理」を語る時、どこまでを含めて「合理的だ」と言うかってことだと思う。「私にとって」なのか「あなたにとって」なのか、それとも「私たちにとって」なのか。そして、「私たち」という複数形で考えるときは誰を含むのかも人によって差が出てくる。場合によってはモノや動植物も含むこともあるだろう。
たぶん、これに正解は無いのだろう。ただ、私は「私たちにとって」と考えることが多い。感覚的に「合理的」という言葉よりも、「しっくりくる」とか「心地よい」という言葉を使ったほうがしっくりくる。
例えば、飲食店の調理師が「私にとって合理的な最適解」で行動したとしよう。引き出しから出した器は、どうせしまうのだからそれまで開けっ放しにしておこう。と言った具合だ。この場合、そこを通る「他の人にとって心地よいか」という視点がない。
飲食店の場合は、お客様も食材も含めて「私たち」になるから、この思考が「当たり前」になっている。料亭だけかもしれないけれど、この思考が育たないうちは一人前の料理人とは認めてもらえないのだ。ずっと調理スタッフのまま。そういう意味では、逆に上に行けないってことになる。
今日も読んでいただきありがとうございます。
冒頭のコメントを読んだ時に「あぁ、と思ってしまう」という表現が、なんだか妙に気に入ってしまってね。感覚はあるのだけど、言葉にならないんだろうな。でも、それでいいと思っている。イチイチ理屈を考えなくても、感覚が備わっていることは、知性だと言って良いんじゃないかな。