日本伝統文化の「伝統」って、もしかして「レイヤード」のことなんじゃないだろうか。 2023年5月21日

昨日の続きの話になるのだけれど、つくづく日本のなかの日本らしさっていうのは、レイヤードなんだろうなと思う。歌枕を巡る旅というのもそうだし、芭蕉に始まる俳諧もそうだ。どこかに起点はあるのだろうけれど、大抵のモノゴトは、その前に何かが存在している。それらを踏まえて、なぞるのだ。なぞりながら、私だったらこうするよというアレンジを加えていくような印象が深まった。

アレンジを加えるということは、その元になるものが存在している。和歌や俳諧もそうだし、絵もそうだ。料理だって、必ず前時代の文化を踏まえて変化が加えられていく。本編のシリーズでいえば、直接的には「日本料理の変遷」がそうだし、「豆腐」だって似たようなものだった。「スシ」なんて、少しずつ改造していった感覚が強い。

最近興味があって、古典文学を少しずつ学んでいる。文章そのものを学ぶというよりも、その背景や成り立ちなどから、古典文学が与えた影響などを中心にしている。今のところ、いろんな日本文化のひとつの起点になっているのが古今和歌集じゃないかと思うようになった。

もっとあとの時代の様々な日本文化を見ていくと、多くの場合に古今和歌集や万葉集、または和歌というジャンルを下敷きにしているようにみえる。

ぼくの好きな書籍に風姿花伝がある。能を完成させた世阿弥が記したもので、能を演じるための心得や考え方などをまとめた秘伝書だ。ぼくらのような一般人が読むことが出来るようになったのは、現代だからこそである。さて、この風姿花伝には、能を極めるために不要な修行が記されている。華道や茶道、書道などといったような、世の中に知られる「道」と付くものは、能には邪魔になるという。ただ、その中にひとつだけ例外が挙げられていて、それが「歌道」、つまり和歌の道である。

それどころか、能の演目そのものがひとつの和歌を取り上げていることも少なくないようだ。ひとつの和歌が描く世界を数十分間もかけて演じるのだという。

おおよそ全ての日本文化が、和歌を下敷きにしている。その和歌の世界を方向づけしたのが古今和歌集であるというから、これは学ぶ価値があると思ったのだ。なにしろ、生業は日本料理店なのだ。つまり、日本の伝統文化の延長にある。

どうやら、かつての日本の伝統文化を支えてきた人たちは、基礎教養として古今和歌集は学んでいたらしい。勅撰和歌集は20以上もあるし、万葉集もある。小倉百人一首だってある。その中でも、古今和歌集は必修だったのかもしれない。

というのも、源氏物語にしても奥の細道にしても、江戸末期に発展する落語ですらも、ところどころに古今和歌集に掲載されている和歌が引用されているからだ。直接的な引用ではなくても、有名な和歌をもじったり、変形させることで話を展開することもある。これは、作者からの「基礎教養として、みんなこのくらいのことは知っていて当然だよね」というメッセージに他ならない。そんなの知るわけがない、と現代人の多くは思うかもしれない。ただ、少なくとも浄瑠璃も歌舞伎も浮世絵も戯作も、現代に残されたものの多くは興行的に成功しているのだから、鑑賞する人たちは「そのくらいのことは知っているさ。バカにしなさんな」といった位のものだたかもしれない。

いずれの作品も、基礎教養がなくても楽しめるようにはなっているようだから、和歌の素養がないひともたくさんいたのじゃないかとは思っている。

こうした作品にある教養とエンターテイメントのバランス感覚が、実にハイコンテクスト。ずっとずっと1000年にわたって文脈を重ね合わせてきたというのが、日本の伝統。これをぼくはレイヤードだと感じている。そして、現代の作品群にもしっかりと同様のものがある。例えば、宮崎駿監督が作り出すアニメ映画だ。何も知らない子供でも十分に楽しめるのだけれど、歴史や伝統や文学や文化などを知っていると、そこかしこにそれらに連なる表現が散りばめられている。それに気づくことが出来ると、物語がいくつもの意味を内包していることがわかるようになっている。ひとつの表現に2つ以上の意味性を持たせるというあたり、和歌の掛詞のようである。

時代が下るに連れて、基礎教養の量が増加しているかもしれない。ずっとレイヤードなのだから、半世紀進むだけでも学ぶべき教養は増加する。とくに、近代以降は変化のスピードが早くなってきたし、日本以外の教養までもが求められる時代だ。さらに言えば、科学という爆速で進む教養もある。

だから、専門分野以外は「圧縮」して「要点」だけを取得するということになるのだろう。それが、小中学校で学ぶものなのかもしれない。最低限の教養として圧縮された情報をインストールすること。

これについて、ぼくなりに変更点を提案するとこうなる。圧縮の仕方と解凍の仕方をセットにしてはいかがだろうか。そもそもこの情報は要点だけだということを伝える。で、圧縮された部分を解答したら、どのような価値があるのか、どうすれば解答することが出来るのかを伝えるのが良いのじゃないだろうか。

ついでに言うならば、圧縮するときに残すべき情報も見直す時期なのかもしれない。情報の羅列だけではなくて、思考方法のパターンを含めた情報に置き換えるというのはどうだろう。歴史上の偉人たちの、行動の結果ばかりを追うのではなくて、彼らがどのような思考方法を持っていたのかを学ぶという部分を残す。もうちょっとだけでいいから。と思う。

今日も読んでくれてありがとうございます。教育のことはさておき、だ。創作を行う人は、基本的に文化の文脈を学んでおいたほうが良いのかもね。消費者の方々にわかってもらえるかどうかはわからないけれど、しっかりと表現だけはしておく。で、教養が深い人だけは「楽しみボーナス」が追加されるっていうのかな。それが「良きこと」なのかは知らないけど、世界中の文化ってそうなってるんだよね。教養は世の中を面白く読み取るためのモノだって。

記事をシェア
ご感想お待ちしております!

ほかの記事

エンバクについて、ちょっと調べたり考えたりしてみた。 2023年5月29日

エンバクというのは不思議な植物だ。人類が農耕を始めた頃は、まだただの雑草だったらしい。まぁ、人間が利用している食用植物は、ほとんど雑草だったのだけれど。エンバクが面白いのは、大麦や小麦の栽培が始まった後の時代でも、ずっと雑草。つまり、麦畑では邪魔者だったわけだ。...

食産業の未来を考える。たべものラジオ的思考。2023年5月27日

もしかしたら以前どこかで話したかもしれないのだけれど、現代の食産業は、産業革命期のアーツアンドクラフツ運動の時期に似ているののじゃないかと思っている。簡単に言うと、産業が近代化した時にあらゆる物が工場で機械的に生産されるようになった。安価でデザインを置いてきぼりにした家具などが大量に出回るようにな...

「ホウレンソウ」で時間をかけるのは相談。 2023年5月26日

「報告、連絡、相談」。通称「ホウレンソウ」は、社会人になると一番最初に言われることだろう。もっと前の学生時代から言われているかも知れない。たしか、ぼくが企業に就職したときもしつこく言われた記憶がある。で、少し思い出したのだけれど、けっこう無駄も多かったという気もしている。...

「食事」という人類の営みの歴史から見る「作法」と「矜持」 2023年5月25日

時々目にすることがあるのだけれど、飲食店によって独自のルールを決めているという記事や書き込みがある。同じく飲食店を経営している身であるから、気持ちは分からなくもない。けれども、独自ルールが特徴的であるということが記事になるような場合、少々やり過ぎではないかと思うケースが多いように見える。...

食べ物と産業と歴史。これからの未来のために。 2023年5月24日

たべものラジオは、食のルーツを辿る旅のような番組だと思っている。その特性として、歴史という意味ではとても長い時間軸でひとつの事象を眺めることになる。ひとつの時代を切り出すのではなくて、紀元前から現代までの長い時間を、ひとつの視点からずっと追っていく。そういう見方だ。だから、ひとつのシリーズがとにか...