1年ほど前に、たべものラジオで「日本料理の変遷」を配信した。かなり端折って話を構成してしまったので、抜けている部分が結構多い。
時代で言えば、奈良時代以前は触れていない。縄文時代や弥生時代から連なる系譜が、どこかに流れ続けているような気はする。が、真剣に取り組むとなると考古学の世界に足を踏み入れることになりそうだ。
現代的な会席料理に繋がる流れを追いかけたから、どうしても歴史的には社会の上流の人々の食生活を中心に描くことになる。だから、庶民の食生活は置いてけぼり。庶民といっても、千差万別。例えば江戸時代なら、江戸の町人も庶民だし、地方の農民も庶民。武士階級だとしても、貧乏御家人と大名では雲泥の差だろう。
断片的にしかわからないので、まだ語れるレベルにないのだ。少し時間はかかるけれど、いずれ配信できるように勉強を続けていくことにする。
勉強をしなくても、観察ができるのが現代。この十年程度でさえ、日本の料理文化は変化し続けている。最近では定着しつつあるお茶と料理のペアリングでさえ、新しい文化だ。焦点をあてることさえすれば、変化が面白く観察できる。そのためには全体を俯瞰しなくちゃいけないのだけど、その材料くらいは提示できたのじゃないかと思っている。
日本に長らく続く所作の方法、つまり作法。これもまた、少しずつ変わっていきそうな気配である。
ざっくりと過去を振り返ると、作法や粋といった美的感覚のほとんどは上流階級から伝播してきた。貴族は殿上人に憧れ、武家は貴族文化を踏襲し、大尽(札差などの金持ち)は上流階級にあった文芸を遊びにして粋を競った。大正時代になって、財界人の後押しで近代的日本料理の粋が形作られて現代に続いている。そして、高度経済成長期には、ついに一般庶民も「美食」に触れられるようになった。
庶民が美食文化を楽しむことが出来るようになったのは、つい最近のこと。現代の富裕層であっても、文化的には庶民感覚の人が多いという感覚があるが、それは大正期以前と比べればよくわかる。
料亭での立ち居振る舞い。粋というものに関して、私達が無知なのは、ある意味当然だろう。なにしろ、庶民にとっては新しい習慣なのだ。お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、ほとんど誰も知らない。だから伝えようがない。
別のカテゴリから伝播した文化は、例えそれが日本全体を見た時には伝統的なものであっても、未知なるものだ。代々伝承されるようなものではない。わずかに漏れ聞こえる情報を手がかりに想像するしかない。一部には勉強する人もいるけれど、ほとんどは噂などを頼りに再構築するというのが現実的だろう。歴史上起きた事象が、いまも起きている。
IT革命と言われた時代を超えてきたけれど、それでも文化は社会全体としては継承出来ないのかもしれない。変遷する以外にないのだろうか。
食卓に食事に関係ないものを置かない。肘をつかない。足を組まない。みたいなことは、教養とされる。これは、文化的素養を受け取った人たちのことを言うのだろう。西欧社会では、ビジネスで成功している人は教養が必要とされていると聞く。教養がない人は、金持ちになっても評価されない。かつての日本社会がそうであったように、だ。
かつては、日本流の伝統文化が西欧から野蛮だと言われた時代があったが、現代においてはもうほとんど見られない。互いに違うことを認識していて、それぞれの文化圏での教養を持っているかどうかが重要なのだそうだ。だから、というと功利的な感じがするけれど、やはり自国文化の教養は人として評価されるという部分は大切なのだろう。
教養というと、なにやら高尚なもののように感じるかもしれないけれど、もっと平たく美意識だと言い換えて良い。個人の好みはあるとしても、それぞれの文化圏で培ってきた美意識の積み重ねを知ることは、現代の社会においても有用なのだ。
変化を観察することも楽しい営みだけど、同時に伝承されるものも抑えておく。この両面を知っていると、世の中はもっと楽しい。
今日も読んでくれてありがとうございます。ご飯にワンバンって、ぼくが子供の頃は「はしたない」って言われたんだよね。いつの間にか市民権を得たみたいになっているけど、ぼくにはまだちょっと違和感がある。だけど、丼ものはどうなるんだろうな。ってことだけど。それは別の文脈で生まれたものだから、作法の外の食事という扱いってとこかな。