うちの靴箱のサイズは中途半端。一段あたり3足収まってくれるとすっきりするのだけれど、ぎりぎり入らない。2足だとスペースが余るのだ。かつてはちょうど良い具合に収まっていたらしいから、この数十年の間に足の大きい人が増えたということなのだろう。そう言えば、身長170cmを少し下回る父も、クラスの中では大きい方だったという。団塊の世代よりも前と、団塊ジュニアより後の時代では平均身長が大きく異なるということなのだろうか。
体格の大きさは食料の豊富さと連動しているという話を聞いたことがある。科学的な根拠があるのか調べたわけではないから真実のほどはわからないけれど、実感として納得できる感覚がある。江戸時代や戦国時代はもっとずっと小さかった。背が高い人物だったと伝えられる織田信長でさえ5尺5寸〜6寸(166cm〜169cm)。当時の男性平均身長は157cm程度だったと言うから、それに比べて大きかったということである。
戦国時代から江戸時代の史跡を巡るときには、155cmくらいの人の視点に合わせてみると良い。ということをオススメしている。先日、掛川城を案内したときにも説明したのだけれど、当時の人達がどんな景色を見ていたのか想像しやすいのだ。城主に謁見するために掛川城御殿に入った武士たちは、控えの間で待たされる。声がかかり、廊下を進もうとすると、そこには豪奢な欄干のついた襖が閉まっている。良く観察すればわかるのだけれど、廊下の途中にほとんど存在する意味など無いだろうと思われる位置に襖がある。襖を開けると正面には庭が見えるのだが、庭しか目に入らないのは、ぼくの身長が175cmだからだ。20cmほど視点を下げてみると、そこには天守が、最も雄大に美しく見える角度で見えるのだ。権威と偉容を示すための仕掛けが施されているのである。
ちょっとしたことだけれど、物事を観察するときのヒントというのは、こうしたところにあるのだろうと思う。当時の人たちの感覚をトレースする。「へぇ、おもしろいなぁ。」というだけでなく、「現代人の感覚なら、あの事象に近いかもしれない。」などと新たな気づきを得ることが出来るのだ。
ミルクの歴史を追ったシリーズで、インドの「ギー(バターオイル)」をRPGの名作ファイナル
ファンタジーに登場するアイテム「エリクサー」に例えたのだが、当時の栄養状態や生活や食糧事情を想像すると、現代人が知っているバターオイルと違う感覚で捉えていたのだろうと想像でしたのである。不足しがちな栄養素が徹底的に凝縮されていて、しかも保存性に長けていて、さらに美味しい。こうした存在は、現代社会では何に当たるだろうか。そもそも、現代人にとって「欠けている栄養」があるのか、それとも「過剰」ではないことが価値になるのか。
食糧事情の現代と未来を考えるためのヒントは、こうして歴史の中から要素を抽出することが出来ると思っている。
人類史は、人類が物事にどう対処してきたのかという「事例の宝庫」である。あんなパターンも有るしこんなパターンも有る。似たような事例なのに結果が違うのは、属人的な挙動と言うよりは気候が影響していそうだな、とか。周辺の民族との関係が影響していそうだな。もし、この影響を排除したら同じ結果になっていたのだろうか。などと、考察するための材料には事欠かない。
これが歴史の使い方のひとつ。
もうひとつは、流れを知ること。今ここにある物の形は、どのような経緯で成り立つに至ったのか。例えば、それが現代においてとても合理的だとは思えない存在だとしても、過去のある時期においてはとても合理的だったかもしれない。その形であることで、なにか良くない物事を抑え込むことが出来たのかもしれない。ということがわかるとしよう。現代では、その「良くない物事」はほとんど現出していないのならば、形を変えてしまっても良いと考えることも出来るのだが、変えた途端に「良くない物事」が復活するかもしれない。そういう想像も出来るだろう。
たべものラジオで紹介するエピソードでは、あまりこういった考察の話をしない。だけど、実はこんな使い方もあって、食産業の分野でも活用できるのである。
今日も読んでいただきありがとうございます。そろそろ知見も溜まってきたことだし、いくつかのテーマで歴史上の事例をまとめてみようかと思っている。そうすれば、もっと現実の事業で利用しやすくなるはずだ。