発想のジャンプには、どうやらお作法というか手順のようなものがあるかもしれない。そうしなければいけないというようなものでもないし、それが正しい手順だというわけでもない。観察してみると、似たような傾向がありそうだな、と感じているだけのことではある。
風が吹けば桶屋が儲かる。というのは、間に過程がある。
風が吹くとホコリが舞う。それで目が見えない人が増える。目が不自由な人は三味線弾きを生業にするので、三味線の需要が増える。三味線を作るには猫の皮が必要になるので、猫が減ってネズミが増える。ネズミは桶をかじるので、桶の需要が増加して儲かる。
そんなわけないよね。と言いたくなるほど因果関係の薄い事象が連鎖している。とはいえ、まぁまぁ物語としては繋がっていて、最初と最後だけを見ると発想がジャンプして見えるわけだ。
漬物がスシになる。代替肉が豆腐になる。お粥がビールになる。薬が嗜好品になる。なども似たような構造にも見えてくる。間にある物語を省略して、最初と最後だけをつなげると飛躍があるように見える。
間にある物語は、「元々あるものを改変する」の繰り返しのようだ。自分たちの生活に合わせて少しだけ改変する。そうすると、改編されたものが定番になって、それをもとに改変する。さらに、新たに生まれたものを基にして改変する。などと繰り返していくうちに、最初とは違ったものになる。そのとき、過去の文脈をたどるのではなくて、直前のものだけを見ることが多そうだ。
もう一つパターンとして見られるのが、コミュニティの越境。貴族の食文化を武士が模倣した結果、全く同じというわけにはいかなくて。それは、生活様式だったり、環境だったり、美意識の違いだったりが原因となって改編されていく。同じように、武士の食文化を庶民が取り入れたときにも改変が起きる。
インドの菜食は、バラモン教へのカウンターから発生して、美意識と同じような感覚で定着したらしい。だから、僧侶は「肉のかわりに他からタンパク質を摂取する」という感覚がない。野菜を野菜として美味しくいただくだけ。もちろん、もどき料理という概念もない。もどき料理は、寺院を訪れる人のために存在しているのだ。「肉を食べたいけれど、代わりになるものがほしい。」という意識がなければもどき料理は成立しない。つまり、もどき料理は菜食の入り口なのだと解釈できる。
日本料理に携わっていると、精進料理が身近にある。そのせいか、菜食だからもどき料理だよねってすんなりと物語を受け取ってしまいそうになるのだけれど、実際はその間にコミュニティの越境があるようだ。
寺院で料理文化が発達したのも、上座部仏教のように托鉢だけでは生活が出来ない環境あだったから。寺院内で食材を調達して自ら料理をしなければいけない。そこに、国家宗教という権威性が加わることで高級精進料理への道ができるというわけだ。
手順というほどのことはない。「◯◯を踏まえて」「◯◯だとすると」という思考を重ねていくうちに、最初とはずいぶんかけ離れた場所にたどり着くという構造があるように見えるというだけのはなし。
加えて言うならば、思考を重ねていく過程では、違う社会や価値観の中に異物を持ち込むという行為があるように見える。
歴史の中で自然発生した魔改造は、こんな感じじゃないかな。他にも色々ありそうだけど、書きながらぱっと思いついたのはこのくらい。時々、イノベーションを起こす人も登場するけれど、もしかしたら似たようなことを個人の中で考えているのかも知れない。それと知ってか知らずか、ね。
今日も読んでくれてありがとうございます。いろんなコミュニティがいっぱいあるんだけど、その境界がけっこう曖昧でゆるやか。っていうのが日本社会の特徴だったのかもね。しっかり分断されていると、越境しにくそうだし。いっぱいあって、ゆるやか。そんな感じなのかな。