落語の枕にこんな小話がある。昔、まだ往来には多くの売り声が響いていて、豆腐屋だったりイワシ屋だったり、納豆屋だったりが天秤棒を担いで売り歩いていた時代のことだ。ある時イワシ屋が威勢のよい声で「え〜イワシ!イワシでござ〜い!」と通り過ぎていく。すると、その後ろから「ふるーい、ふるいふるい〜」という声が続く。
「おい、オメェはなんだ。よせやぃ、おれっちのイワシは今朝鎌倉河岸で仕入れてきたばっかりで新鮮なんだ。変なことを言うと張り倒すぞ」
「え?なんですか?アタシは別にあなたのイワシのことなんかしりませんよ。」
「なんだってぇ?!」
「アタシは、フルイ屋ですからね。こうしてフルイを売り歩いてるだけですよ。」
「ややこしいから、オメェ先にやれ」
「そりゃまぁ、構いやしませんけどね。」
「ふるーい、ふるいふるい〜」
「イワシ!って、コリャだめだ。オメェあっちいけ」
「なんですって!」
と、そこへ別の男が現れる。
「ちょ、ちょっと待った。こんな往来で何をやり合ってるんだい。お互いに商売をしくじっちまうじゃないか。」
イワシ屋が事の顛末を語って聞かせると
「そういうことなら、一肌脱ごうじゃないか。どれ、今まで通りやってごらんなさい。アッシが万事うまく治めるから」
「ホントかい?じゃあいくぜ。え〜、イワシ!」
「ふるーい、ふるいふるい〜」
「え〜ふるかねぇ」
古鉄屋が、二人のあとから古くないと打ち消して歩いたって笑い話。
とても短い噺なんだけど、ぼくはこれが好きでね。どっちがいいとか悪いとか、そういう話をしない。やりようによっては、話し合ってあっちの道とこっちの道を、一日ごとに入れ替えようじゃないかって話にも出来るんだけど、しない。なんと別の人を加えて丸く収めてしまうわけだ。似たような話に「三方一両損」というのがあるけれど、あの話とはちょっと違う。誰も損しないんだから。
隣の家のベランダでトマトを育てている。そんな状況を想像してみる。最初はプランターひとつだったけれど、いつのまにか増えてしまってベランダいっぱいに作物が並んでいる。そうすると、虫が増えるんだよね。隣人はどう思うだろうか。人によっては、虫が嫌だからやめてほしいと苦情を言うのかもしれない。
ここに、なにか別のものが新たに登場することで、どちらも折れることのない解決があるかもしれない。それどころか、今までよりももっと良い関係になる可能性が生まれるかもしれない。人間ならば、苦情を言っていた人の子供が、お隣さんのトマトで好き嫌いが治ったなんていうエピソードがあったらハートウォーミングストーリーになるね。もっとシンプルに、てんとう虫を飼うという選択肢もあるかもしれない。
トマトにはアブラムシがやってくる。てんとう虫はアブラムシが大好物だ。周囲に、アブラムシやてんとう虫が行きたくなるような環境がなければ、彼らはトマトプランターから離れない。離れることに意味はないのだ。虫が嫌だという苦情は減って、アブラムシを除去するための殺虫剤もいらない。そういうサイクルを作り出すかもしれない。
ぼくが想像できないような、もっともっと複雑で良好なサイクルはあるんじゃないかと思う。風が吹けば桶屋が儲かるとかバタフライ・エフェクトと呼ばれるような、一見しただけではわからないくらいの影響が複雑に絡み合っていて、それらが絶妙なバランスを取っているかもしれない。
環境を著しく変化させる場合、ぼくはそっと恐怖することがある。それは、ぼくには感知できないバランスが崩れるかもしれないという思いからやってくる。触らない方がいい。でも、そうじゃないかもね。もっと積極的に介入していってバランスを取ろうとしてもよいだろう。ぼくには読み解けなくても、他の誰かはわかるかもしれない。それこそ、現代のテクノロジーならば出来ることもあるだろうし。
今日も読んでくれてありがとうございます。古鉄屋の役割をどうやって生み出すのだろうね。落語の世界では、ちょっと気の利いた言葉遊びというかトンチだったんだけどさ。少し視点をずらしながら見ていくと、案外みつかるなんてことがあるのかな。