とある外国の映画の中で、「スシや刺身はコスパが悪い」と言っていた。ほとんど調理らしきこともしていないのに、料理の価格としては割高だという。日本人で、日本料理にかかる手間や技術を多少なりとも知っている人ならば、いくつもの反論が思いつくだろう。けれども、西洋社会の食文化の文脈を考えれば、こうした反応も無理からぬことかもしれない。
幼稚園に上がるかどうかという年齢の子供にも、どうしたわけかスシや刺身は人気が高い。生で食材を食べるということは、どういうことなのだろう。直感的に美味しいと感じているのではあるけれど、それが体にとって良いことだから、その様に味覚が感知しているのだろうか。それとも、文化的な、あるいは伝統的な文脈の中で、生食を美味しいと感じるようになってきたのだろうか。
そういう意味でも、刺身というのはとても興味深い料理だ。そのままでも美味しく食べることは出来るだろうけれど、醤油という調味料が不可欠とされている。
情報というのは、純度が高いほどに解像度が高いという感覚がある。雑音があることで、そのものが持っている情報が少し靄がかかったように感じる。そんなイメージが有る。刺身に置き換えるならば、醤油をつけずに食べるほうが、魚本来の味を鋭敏に感じ取ることが出来るということになるだろう。たしかに、ぼくらのように普段から刺身という料理を扱っている料理人は、調理の過程の中で醤油をつけずに魚の味見をすることがある。
一方で、醤油などの調味料をつけたほうが刺身の味がより明確にわかるということもある。醤油というのは、魚本来の味を理解する上では、ある種の雑音になるはず。なのだけれど、魚の中の特定の味を感知するためには、その雑音がとてもよい仕事をしてくれる。雑音が入ることで、魚そのものの味が際立つ。醤油をつけることで、その刺身の良し悪しがよりわかりやすくなる。
どういった原理なのか、イマイチ明確に言語化ができていない。マスキング効果なのかもしれないし、対比による効果なのかもしれないし、相対化なのかもしれない。とにかく、一見余計なものだと思えるような情報があることで本質に近づくことがある、ということだけは、よくあることらしい。
普段から、たくさんの情報が注ぎ込まれているのが現代人。事実だったり、個人の見解だったり、フェイクニュースだったり、ありとあらゆる情報が飛び交っている。たとえインターネットの世界を覗き込まなくても、テレビやラジオや新聞、口コミによって接種することになる。その一つ一つが正しい情報であるかどうかを検証することは、とても難しい。というか、時間がかかりすぎて日常生活に支障が出る。だから、あまり何も言わないでボーッとやり過ごしたり、盲目的に信じたりする。
混沌とした情報社会の中で、物事の本質を見いだすことはとても難しいというのが、現代社会の特徴だと言われている。ただ、もしかしたら情報がやたらと多いことで、かえって本質を取り出すことが出来るかもしれない。
とても日本人的な解釈になるかもしれないけれど、受け手の姿勢ひとつで物事の見え方は大きく変わってしまうということなのだろう。雑多な情報を、どのように捉えて解釈するか。本質を見定めるために有用なアクセントだと捉えるのか、それとも覆い隠してしまう雑音と捉えるのか。
むろん、全てに醤油があったほうが良いというわけではないだろう。純然たる情報を直接接種したほうが良い場合もある。むしろ、そのほうが良いのかもしれない。一次ソースにあたってみると、本人はそんなことを言っていないのにも関わらず、波及の過程で違った情報になってしまっていることがある。というのが、良い例かもしれない。
歪められた情報のお陰で、一次情報がよく理解できることもあるのは、歪められた情報に対して一定の距離感を持っている場合に限るのだろうか。君子の交わりは淡きこと水の如しという故事があるけれど、人と人との交わり方だけでなく、情報との交わり方にも通じることなのだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。なにしろ、たべものラジオをやり始めてから、接種する情報量が急速に増えてしまったものだからね。本で読んだことをそのまま話すのも良いのだけれど、それだけじゃわかりにくくなってしまうんだよ。だから、少しばかりの雑音として「ぼくらの意見」なんかを織り交ぜている。良いかどうかはわからないけど。