話すのが早いのは、あまり良いことではないと思っている。というのは、ぼくが早いからだろうね。ゆっくりなタイプの人は、もう少し早く喋りたいって思っているらしくて、ないものねだりなのかなあ。
最近、初めて「たべものラジオ」をシリーズ通してまともに聞いたんだよね。お茶のシリーズ。意識的に話すスピードを下げていた。ということを思い出した。最近は、そういう意識が抜けていてわかりにくくなっているのかもね。もう少し気をつけて収録に挑むことにしよう。ま、ノッてくると勝手に早くなっちゃうんだけど。
話すスピードをもう少し下げたほうが良い。とは思っているのだけど、どこかでちょっと諦めている部分もある。どのみち喋る量が多いからね。ラジオでなくても、元々多い。説明するときなんかは、結局背景まで喋ることがある。そうなると、量が多いから早くしないと時間的に長くなっちゃう。そんな焦りみたいなのがあるんだろうね。もっと、要点をまとめてから話せば良いのだ。
ゆっくり話すタイプの人は、ちゃんと心のなかで要点をまとめていて、適切な言葉を選んでから喋っているような印象がある。余計な言葉が少ない。だから、聞きやすいということなのかな。学者さんに多い印象だ。正確な言葉を使おうとしているからだろうか。
早く話すタイプの人は、言葉を選ぶ作業をあまりしていないのかもしれない。声に出しちゃってから少しずつ修正していく感じ。そうだなあ。絵に例えるなら、下書き。薄い線をいっぱい書いて輪郭を浮かび上がらせるような感覚に近いのかもしれない。シャッシャッと、たくさんの薄い線。何度も重ねているうちに、ぼんやりと輪郭線が見えてくる。
だから、話しているうちに自分で輪郭に気がつくことがある。で、最後の方で「要は~」とか「つまり~」という文脈になるのか。弱点は、倒置法が増えること。ドンドン先に進みたいもんだから、結論の動詞を言っちゃってから、捕捉するように言葉と足し算していく。
こういうところは、ちょっとだけ諦めている部分もある。話し方ではないのだけれど、何かの概念を理解するときには、デッサンのような構造になることがあるからだ。
例えば、「日本料理とはなにか?」という話をしようとする。そのものズバリのシリーズを発信するのもひとつの手段だけど、そうじゃないこともあると思うんだ。スシとかソバとか精進料理とか飲酒文化とか。そういう個別の事象を積み重ねていくと、次第に「日本人にとっての食の捉え方ってこんな感じだよね」ということが見えてくるのである。実線でバシッと輪郭が決まらない。だけど、実線じゃないからこそ解釈の余韻が残るという感覚なんだよね。
けど、あれよね。全体の大きな構成がそうなっているのに、話し方まで同じだとぼやけるんだろうね。練習します。
ちゃんと意識してゆっくり喋る時だってある。一人でプレゼンしているときのほうがゆっくりだ。たぶん、他の人よりもゆっくりしているし、間が多い。スーッと実線を引く。細かい事情は避ける。要点だけを喋る。そういうスタンス。
車で言えばローギア。遅いけれどもちゃんと駆動力がある。力強くてしっかりとした安心感もある。
話し手にとって聞きやすいスピードは、話し手の癖や個性に影響される。ぼくにとっての「ゆっくり喋る」は、他の人にとっての「早く喋る」になるかもしれない。それが、ぼくの喋り方であれば、ちょうど聞きやすいスピードだとしても、他の人の場合は違うかもしれない。声質とか喋り方とか性格とか、そういった様々な要因が積み重なって、適正なスピードが定まる。聞く人ではなくて、喋る人の要因だね。
ぼくらは言葉を使う生き物である。言葉で伝わらないことも多いけれど、それでも言葉があることで伝えられることが出来る。ホモ・サピエンスはそういう生き物。だから、言葉をもっと大切に扱った方が良いし、伝えるということに意識を払ったほうが良い。いや、伝えるというよりも「伝わる」の方が重要だろう。言葉で伝え合うことが出来ると、そのおかげで言葉にならない部分も明瞭になるような気がしているんだ。言葉をもっともっと洗練させていく。そうすると、言語外の世界が深まる。そんなイメージ。
今日も読んでくれてありがとうございます。他愛もない話だけれど、日常には会話があふれている。だからこそ、言葉をちゃんと扱うのが良いのだろうね。ほとんどの揉め事の原因はディスコミュニケーションに始まるのだ。コミュニケーションによる相互理解が組織を安定させる。当たり前かもしれないけれど、なかなか難しいんだよなあ。