今日のエッセイ-たろう

銘々膳と共食文化。我思う故に我ありではない個の解釈。 2024年1月11日

長らく不思議に感じていることがある。それは、日本の食事スタイルのこと。なぜ、日本では銘々膳のスタイルが一般的なのだろう。そんなことに疑問を持つことに意味はないのかもしれないのだけれど、日本だからこそ不思議に感じてしまうのだ。

日本の文化では「個」という概念が薄いと感じている。デカルトのような我思う故に我ありではないのだ。我思わなくとも、我はあるし我はなくても良い。そもそも、個人の我などはあまり感じていなかったのかもしれない。

仏教的に言えば、業である。という解釈もある。もともと、なにか得体のしれない溶け合ったものがあって、そこから現世に出現したのが私であり、様々な生き物である。というような感覚なのだろうか。

そういう哲学的な思考なんかしなくても、個人という感覚が薄いように見えるんだよね。なんというか、全体の一部というような感覚。最近、「ただいま発酵中」というポッドキャストの中で小倉ヒラクさんがキノコに例えていたのだけれど、これが妙にしっくりくる。菌はそれ単体で菌なのだけれど、菌が集合してキノコという形をなしている。キノコはキノコで単体として成立している。ぼくらが菌だとすると、個であり個ではないということになる。個人よりももっと大きな流れの中に溶け込んでいて、個人はそのなかに存在することで成り立っている。同番組で石崎嵩人さんが言っていたのだけれど、子どもたちが遊びに参加したいときには「混ぜて」と言うのもその現れかもしれない。参加ではなく、その場に融合する。

共食という文脈から考えると、古来から日本に根づく個の考え方と、銘々膳の食事スタイルが合致しないようにも見える。さてどうしたものか。というのが、疑問だったのだ。けれどもそうじゃないのかもしれない。

元々、独立した個人という考えが薄いからこそ、膳を分断しても構わないのかもしれない。根底には、神饌に代表されるような共食の概念がある。そもそも、私たちは一体だよねという合意がすでに存在している。だからこそ、銘々膳であっても共同体であることは担保されるのだ。「同じ釜の飯を食う」というのは、共同体であることを確認し合う行動だと言われているけれど、つまりは、個が独立していない社会だからこそ境界を引くことにためらいがないのかもしれない。もしかすると、少しくらいは境界線を引かないとバランスが悪いのかもしれないとすら思える。

和合すべきは輪。世間と言ってもいいのかな。我の意思というよりも、場の空気が優先される。この概念が共有されている社会だからこそ成り立つのが日本流の共食ということなのだろうか。

だとするならば、「同じ食卓を囲んでいながら別々のおかずを食べる」というのはどうだろう。家庭の食卓を想像すると、違和感がある。けれども、同僚とランチに出かけた時を想像すると、それは共食だとも言えそうな気になる。この差分は一体なんだろう。家族という最小単位の密な集団では、いろんな食を分け合うことに幸福を見出しているのだろうか。たとえ自分の好物であっても、子供がそれを好むのであれば親は率先して子供に与えようとする。夫婦でも似たような行動をすることがある。会社の同僚との間柄では、あまり見られない光景かもしれない。

なんだかよくわからなくなってきた。個人という概念と、共食の文化はグラデーションなのかな。それぞれの環境によって、いろいろなバリエーションがあるかもしれない。場合によっては、ひとつのグラスをシェアするようなことすらも違和感がないということもあるだろう。箸をシェアするなんてことだってありそうだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。なにか気がついたような気がしたので書き出してみたものの、けっきょくなんだかよくわからないままだった。自然を含めた環境の中の一部という個の解釈は、どこか食文化や生活に影響があるような気がするんだけどな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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