飲食店が社会に存在している理由のひとつに、「非日常の体験を提供する」というものがある。普段の生活では体験できないことだからこそ、お金を払ってでも体験する価値がある。もちろんこれだけじゃないけどね。日常生活の代行という意味も存在している。いわゆるアウトソーシング。自社の中でも出来るんだけど、面倒だしコストがかかる。だから、お金を払って他の人にお願いする。そういうのもある。
掛茶料理むとうの場合は主に「非日常体験の提供」が主要目的になる。会席料理を日常的に食べる人はいないだろうしね。そもそも、会席料理も懐石料理もハレの料理様式なのだ。当たり前といえば当たり前。
こうした非日常体験を演出するべはいくつかある。要素分解することが出来るはずだ。例えば、高級食材。わかりやすいよね。毎日フグやヒラメやタイを食べている人は居ないんじゃないかな。高級な和牛とか、ウニとかキャビア、伊勢海老に車海老。色々あるけれど、こんな高級なものばかりを食べている人は、少ないだろうね。まぁ、いるのかもしれないけどさ。
そうそう。高級であることと、珍しいということは必ずしも一致しない。例えば、産地で食べる野菜なんかもそうだよね。食材は基本的に鮮度が命。魚は熟成させることで旨味を増すのだけれど、熟成っていうのは技術なんだ。ちゃんと適切な処理をして、環境を整えることで熟成させることが出来る。その処理を行うのは鮮度が高い方が良い。これが魚介。で、野菜の場合は鮮度が高いに越したことはない。大根だって人参だって、ほうれん草だって小松菜だって、収穫してから食べるまでの時間は短いほうが美味しいのだ。
珍しい食材というと、珍しい食材の「種類」に目が行きがちだけど、そうじゃないんだよね。手に入りづらいという意味では、鮮度が良いということも珍しい食材になり得る。そう、なり得るのだ。
東京などの都市型の生活を送っている地域では、この鮮度の高い食材がとても珍しい。それはもう、産地からの距離が遠くて流通に時間がかかるのだからどうしようもない。朝どれの甘いトウモロコシなんて、まずめったにお目にかかることはないだろう。夜明け前に収穫して、お昼ころには劣化してしまっているのだ。トウモロコシの糖質が変性してデンプンになっちゃうからなんだよね。だから、産地の近くでなければどうしようもない。ね。もうこれだけで珍しいでしょう。
野菜は鮮度のよい状態で食べれば、美味しい。野菜が嫌いな人って、だいたいこれを知らないんだよね。それから、「健康のために野菜を食べなくちゃいけない」と言っている人も、たぶん知らないんだろうなぁ。だってさ。「食べなくちゃいけない」って行っている時点で、ぼくらみたいな田舎暮らしの人間には違和感があるんだよ。ぼくらにとっての野菜は「美味しいから食べたい」食材なんだ。「食べたい」んだよ。もうこれは声を大にして言いたい。採れたての大根やキュウリやナスを食べてみてよ。スーパーマーケットに並んでいるものとは違うんだ。
スーパーマーケットに並んでいるものが悪いとは言わない。しょうがないじゃない。収穫した場所が遠いんだもの。なるべく効率よく遠くへ運ぶためにサイズを規格化して、傷まないような工夫をして、いろんな工夫が積み上がってぼくらの手元に届くわけだ。この仕組みがあるからこそ、ぼくらの生活は飢餓と無縁の社会になれたんだからね。全く否定しちゃったら、社会構造そのものを作り変えなくちゃいけない。都市型生活はほぼすべて崩壊するよね。
話を戻そう。珍しい食べ物は、意外と身近にあるんだよね。すっごく簡単に言っちゃえば、一般家庭の食卓に上がっている。ただただ、住んでいる地域が違うだけで、それが一般的なものになったり珍しいものになったりするってことだ。日本人にとっては当たり前の醤油や味噌だって、海外ではとても珍しい食材なのだ。これは、日本国内のあちこちで見られること。鮮度に格差がある。これが、各地方の個性になっている現象だよね。
他人の日常は、ぼくの非日常。観光でも料理でも同じことだ。業界をまたぐだけでも、実は知られていない慣習にまみれていたりしてとてもおもしろい。造り酒屋さんの日常に密着してみたら、それだけでとてもおもしろいだろうなあ。面白いって言ったら叱られるかもしれないけれど、そう感じてしまうんだと思う。そんな「非日常」は世界中に転がっている。あとは、それを体験しやすくするためにどんなデザインを施すかってはなしだよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。体験のデザインにメッセージを込めることが大切なんだと思っている。っていうのもね。料理ってそうだから。ところが、観光とか資源活用の視点に立つと、つい忘れられがちだ。他人の私生活が非日常になるのだったら、それを見せる意図は何か。どんなメッセージが込められているのか。ここが、コンテンツになるか、そうでないかの分かれ目だと思うんだ。