今日のエッセイ-たろう

食や料理の知の共有はどうすればいい? 2024年11月15日

16世紀の哲学者フランシス・ベーコンは、知の共有が大切だと訴えた。あらゆる博物学の知見を共有できる場所、データベースのようなものを作って、それを土台として知恵の発展を願った。彼の意志は引き継がれ、イギリス王立協会が出来たという。この先、紆余曲折がありながらも世界の科学的研究は、それまでの歴史では見られなかったほどの発展を遂げることになる。あまりフォーカスされない人だけれど、彼の功績は大きいと個人的に思っている。

料理に関しては、知の共有が少ない。あるのだけれど、体系化されていないために、取り出すのも使うのも難しい。

食に関する研究そのものは、紀元前からいくつもある。農書や本草書などにも、料理レシピが記載されているし、古いところだとバビロニアの石板などにも記載されている。「四条流包丁書」「料理物語」などもこれにあたるし、ローマのプラチナやその後に続く料理人や料理研究家の書籍も残されている。にも関わらず、料理人は科学者のようにジャーナルを活用するすべを知らない。

いや、術は知っているはずだ。知っているのに、活用している人の数が少ないというのが正確かもしれない。これは一体なぜだろうか。私はは、料理に関する知見がとても少ないし、同年代の料理人と比べればかなり後発になるので、なるべくならば先人たちの知恵を授かりたいと思っている。だから本を読むわけだ。

ひとつには、料理に関する知見には査読がない。当たり前といえば当たり前なのだけれど、料理に科学のような「正しさ」は無い。ありえないのだ。誰かのレシピを見て、別の人が良し悪しを決めて、それが基準となるなんて嬉しくもなんとも無い。

ただ、すでに存在しているかどうか、くらいは判定しても良さそうだとは思う。

ぼくが、ちょっとばかり料理ができるようになってきた頃のことだ。旬の食材を使って、自分なりに知恵を絞って今まで作ったことのない料理を生み出したことがある。たまたま、父がそれを目にして放った一言が強烈なインパクトをもって記憶に残っている。「それをやりたいのだったら、◯◯という本の後ろの方に載っていたはずだから見たほうが良い。もっとずっと美味しいはずだから。」言われた通り書籍を開いてみると、そこにはぼくが作ったものよりもずっと優れたものが載っていて、それは数十年も前には一定の支持を得ていた料理だった。

車輪の再発明。のようなことは、料理の世界にはいくらでもある。あれからぼくは、創作というものを一旦やめてひたすら古今東西の料理を調べることにした。調べてみて、参考にできそうなものをピックアップしてアレンジはする。だけれども、決して「ぼくの創作」だとは思わないようになった。人類の料理研究の歴史はそんなに浅くない。という確信があるからだ。

だからこそ、世界中の料理の知見を検索可能なデータベースに集約したらどれほど良いかと思う。たべものラジオでいろんな食材について勉強していると、そのついでに世界中の料理や食文化や常識に触れることになる。それが、新たなインスピレーションを与えてくれている。

ただ、ちょっと工夫が必要だろうと思っている。サイエンスと同じようにはいかないだろうから。というのも、既存の料理に関する知見はとてもファジーなのだ。

父の書き記したメモ帳も、ぼくのそれも、けっこう嘘が多い。嘘というと語弊があるけれど、自分で納得のいったレシピではなくて、60点から80点程度のレシピしか「書かれていない」のだ。レシピというのは、脳内であれこれ方程式のように考えるというよりも、実際に手を動かしながら生み出されることのほうが多い。味見をしながら、こうしたらこうなるだろうと感覚をフル稼働させて「より良い状態」を探り当てる行為だ。少なくとも、ぼくやぼくの知る料理人はそうである。だから、調味料を何グラム入れたかについては、あまり精緻に計っていない。調理時間もあいまいだ。何度か繰り返していくうちに、再現性が高まっていき、そのうちにレシピが確定するのだ。父のメモ帳もぼくのそれも、その過程の記録。だから、完成形が書かれていないという、科学のジャーナルから考えたらとんでもない状態である。

ところが、これが実に有用なのである。実は、最も再現性が高い可能性もある。なぜなら、使う食材の状態も気候も、なんなら調理をするぼくらの心や体の変化に柔軟に対応できる。そういう余白が残されている。世界最大の出版物である宗教の書物は、曖昧であるがゆえに解釈の幅があり、それが長く受け入れられ続けているという話を聞いたことがある。もしかしたら、それににているのかもしれない。

気候、社会の構造、植物の多様性、生産効率、品種改良、トレンド、好み、思想、経済。内外の多くの要因で、完璧だと思われたレシピはあっという間に完璧ではなくなるし、忘れ去られるほどに衰退することもある。だからといって、料理のデータベースが無意味だというわけじゃない。あらゆる変動要因があるということを踏まえたうえで読み解くことが必要なのだ。たべものラジオでは、まさにそれを調査して伝えるコンテンツで有りたいと思っている。

人類史のなかで、多くの変動要因を加味してデータベースを読み解くことが出来るのは、限られた人間だけだった。それぞれの時代の知識人のみ。料理ならば、料理以外の知見をもつ人だけが読み解ける。これが、知の共有が進まなかった原因のひとつだったのじゃないかと思う。

もしかしたら、現代の情報処理技術を使えば、誰でもアクセスできるデータベースを作ることが出来るかもしれない。それこそ、古今東西の知見を集積して、自在に活用できるデータベース。そういうのが出来たら良いなと思っているし、そのためのチームがほしいと思っている。

今日も読んでいただきありがとうございます。「和食」って、ユネスコ無形文化遺産になっているんだけど、英語で紹介されている文献がほんとに少ないんだよね。日本の発酵技術もそうで、海外で「日本の発酵」に関する書籍は、日本人ではない人が書いたものばっかり。和食もそうなっちゃうんだろうという危機感がある。けど、同時に「和食」を語るために和食だけを調査するのも違っていて、補集合の調査とそれらとの比較も重要なんだよね。このあたりが、少々不足しているようだから、データベースがあると助かるんだけどな。

タグ

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

-今日のエッセイ-たろう
-, , ,