とにかく時間がないので急いでください。と言われたが、なかなか厳しいものがある。昼食時間が30分しかないそうだ。それも、来店してから退店までが30分。会席料理でなくてもタイトな時間だ。はたして「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」までを30分でおさめられる飲食店はどのくらいあるのだろう。
なにかの視察の帰りだろうか。工場から駅へ向かう途中で立ち寄った、といった風情。事前に予約をしてもらっていたので、入念に準備して対応することが出来た。ただ、少しもやもやした気持ちが残る。
そもそも、なぜ食事の時間を削ったのだろう。
食事に対する重み付け
仕事が忙しい時、どうしても食事の時間が削られてしまうことがある。あれもやらなくちゃいけないし、次の約束もある。その間にパパっと食べる。何かお腹に入れておかなくちゃ。そういう時は、食事を味わったり楽しんだりしている余裕がないのだ。だから「食事は後回し」という感覚は、ぼくにも備わっている。
だけど、食事の時間は絶対に譲らないという判断はありえないのだろうか。つまり、重み付けの問題だ。食事そのものが、仕事や用事と同等の重み付けがされていたら、食事の時間を削ろうという発想にはならないはず。
一日のスケジュールの中で、食事の優先順位が低くなりがちなのは、人類の普遍的な傾向なのだろうか。それとも、社会的規範がそうなってしまっているからなのだろうか。ぼくには後者のように思えるのだ。
忙しい時はしょうがないけど、ホントはゆっくり食事をしたいよね。という気持ちがどこかにある。もしかしたら、今もデスクでサンドウィッチを摘んでいるかもしれない。だとしても、食事の時くらいは仕事から離れたい。ほんとうは、ゆっくり食べたほうが健全だ。そう思っている人は少なくないのではないだろうか。だとすれば、「食事の時間が短い」とわざわざ感じること自体、どこかでそれを普通ではないと思っているということなのだろう。
食事の時間は短ければ短いほどよい
全く逆の発想をする人達がいる。それを知ったのは『ハンバーガーの歴史』という書籍のなかに「アメリカ以外の多くの国では、食事は早く済ませるべきものとは考えられていない。」という文章を見つけたときだった。著者はアメリカ人である。そういえば、似たような表現をレイ・クロックの自伝の中でも見かけた。それぞれの出版時期には40年ほどの開きがあるのだけれど、感覚が共通しているということはアメリカで一定の共通感覚になっているということだろうか。もちろん、全員ではないだろうが。
ファストフード店は、とにかく客を高回転させるためにデザインされている。店舗もシステムも料理、あらゆるものが高回転しやすいように設計されている。回転を上げるということは、販売量を増やすためだ。さっさと食べて、食べ終わったらでていって欲しい。という店舗の希望は、客たちの「手早く済ませたい」という感覚によって叶えられたのだろう。
日本では、ラーメン屋などが高回転のための工夫がなされた店として例に挙げられる。カウンターのスツールを高くして座面を赤く塗ったのは、長時間滞在しにくいようにするための工夫だとか。行列ができていたら、それを理由に客を急かすこともあるという。
ちなみに、ぼくはそういう店には行かない。自分の都合で急がなければならないときは、仕方なく時間を削るのだが、他人に「早く食べて早く出ていけ」と誘導されるのはどうも気に入らない。ちゃんと味わいたいし、ちょっとくらいは余韻が欲しい。もちろん、待っている人の迷惑にならないように気をつけるが、だからといって追い立てられるのは嫌なのだ。
食事に対する価値観
食事は早く済ませるべきものかどうかについて、絶対的な正義はない。価値観の違いである。ただ、ぼくの個人的な価値観に従うなら「のんびり時間をかけるとまでは行かなくても、一日の中に食事を楽しむくらいの余白がある方が健全」だと思っている。
この感覚は、そこそこ多くの人と共有できる気がするのだけどどうだろう。
もし感覚が近い人が多いんだとしたら、「出張の時くらいゆっくり食事させてあげたらいいのに」とは思うかな。誰がスケジュールを組んだのか知らないけれど、そのくらいの余白を持たせて、ゆっくりお喋りできる時間を残したらどうだろう。そのために、他のスケジュールを調整するのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。
大量生産大量消費時代になってから、人は「何を買うか」がアイデンティティの拠り所になった。同じように、ぼくらにとって、「何に時間を使うか」は自分の価値判断が現れるところなのだ。
小説の世界をじっくり味わうのか、それともあらすじだけを知るのか。たしかに、後者のほうが短い時間で情報は手に入る。だけど、心地よさとか、豊かさみたいなものまで含めて考えたとき、ほんとうにタイムパフォーマンスが良いのはどちらなのだろうね。