今日のエッセイ-たろう

おいしさは、いつも同じでなくていい。—自然の揺らぎを引き受ける

いつでもどこでも同じ物が欲しい。そんな期待に応えようと、ものづくりに向き合う人達がいる。ものづくりをする職人魂は素晴らしい。だけど、「いつでもどこでも同じ」が良いという価値観はどうなのだろう。

長い人類の営みを思えば、いつでもどこでも同じではないことの方が普通だ。多くの原料を自然から得ているのだから、地域や季節などの環境で品質は変化する。
「今日はいい魚が入ってるよ」
と魚屋や料理屋が言うのは、そうではない時があるからに他ならない。

品質が安定しているということ

ある米農家がこんな事を言っていた。
「昨今の気候変動のおかげで、計画通りに育たないんだ。田んぼごとに調整しているけど、どうしても品質に差ができてしまう。」
天の変化に対して、人の営みが及ぼす影響には限界があるのだ。
「決して悪くはないんだけどね。いつもと同じじゃないと値段がつかないんだ。」

農作物であれ、工業製品であれ、品質が一定であるということは「流通経済のための商品価値」だ。一箱の中の商品が全て同じ品質であることは、計算しやすい。常に同じ品質ならば、先物取引にも都合が良い。といった具合である。
さらに、買った商品を工場で加工するのであれば、同じ品質であり続けることはとても大事だ。もし、ロットごとに品質が異なるようであれば、毎度機械を調整しなければならないし、異なる品質の素材を混ぜることは出来ないのだ。

品質の安定性は信頼に繋がる、と言われているけれど、それは「流通」の途中にあるからと言える。

そうは言っても、「いつでもおいしい料理を出す店のほうが良いじゃないか」と思うかもしれない。確かにそうなのだが、それは必ずしも「同じ品質」である必要はないはずだ。

揺らぎにどう対応するか

わかりやすくするために、飲食店を例に考えてみよう。
天候は毎年違う。作物の出来も毎年違う。料理人のコンディションも違う。食べる人の気分も違う。食べるシチュエーションも違う。商流の川上から川下まで、全てが揺らぎの中にあるのが普通だ。

農家や料理人は、そうした環境の中で最善を尽くすのである。みんなが頑張る。だから、結果としておいしくなるのだけれど、だからといって「前回と同じ」ではない。別に「前回と同じ」ではなくてもいいじゃないか。おいしいのだから。
「あの店の料理はいつたべてもうまいねぇ」
というのはそういうことだろうと思う。

だいたい、食べる人も揺らいでいるのだから、感じ方だって同じなわけがないのだ。だったら、その都度合わせたほうがおいしく感じられる。

取引先のお茶屋さんが、納品のたびにお茶の仕上がりについてコメントを残していく。今回はこんな感じになった。前回とはこう違う。といった具合だ。商品名が同じだとしても、素材の状態や仕上げ加工の時期も違うのだから当然だ。わざわざコメントを残していくのは、ぼくへのバトンである。お茶を入れる時にどう対処するかを考えるヒントにしてくれというのだ。

揺らぎに対応するための知恵

調理には様々な道具があって、いろんな調味料が使われる。これらは揺らぎがとても少ない。少なくなるように作っている。もちろん、完璧に均質なわけじゃないけれど、野菜の状態に比べればずっと安定している。実は、これは料理人が揺らぎに対応するために大切なことなのだ。

自由自在に動くポイントもあれば、動かないほうが良いポイントもある。例えば手首の関節はいろんな方向にくるくると曲がる。それに比べると、肘関節の動きは限定的だ。自在に動くモビリティと、動きが限定的なスタビリティの組み合わせでできている。肩、肘、手首、指と順番に眺めていくと、モビリティとスタビリティが交互に現れるのがわかる。

これは例え話だけれど、自由度の高いものと、安定したものが組み合わさることが、自在性を発揮するためには必要なことなのだろうと思う。
調味料や道具、農具などは、なるべく安定していたほうが良いということなのかもしれない。理屈はよくわからないが、良い按配になるようになってきたということなのだろう。

天道と人道

二宮金次郎は、報徳仕法を伝える際「天道」と「人道」から話を始めたそうだ。
天道とは、自然環境のこと。放っておいても昼は夜になるし、春になれば花が咲く。同じように、茅葺屋根は勝手に朽ちていくし、壁は崩れていく。天の成すことに善悪はない。
人道とは、人の営みのこと。家がなければ雨露を凌ぐことも出来ないし、衣服がなければ寒さも暑さも凌げない。そういう生き物だから、米は良いもので雑草は悪いものだとか、家を作ることは良いことだが朽ち果てることは悪いことだという。

天道に善悪なんかなくて、人のなす事を助けることもあれば妨げることもあるのだ。そんなだから、人はルールを決めたり、学んだりして、それをしつこいくらいに整えて、ようやく社会を成り立たせるのだ。

一番大切なのは、半分は天道に従って、半分は天道に逆らうこと。自然の流れにあわせて種をまいて、自然に逆らって雑草を取る。そんなバランス感覚だという。

前述の農家さんは、たぶんこの感覚がわかる。理解するというのではなく、体感としてわかっている。だから、これ以上天道に逆らうのは無理だって言っているのだろう。

金次郎は、天道と人道の関係を水車に例えている。半分水に浸かって、流れに逆らう部分と反対になる部分があるから回る。全部沈めてしまえば水車ごと流されてしまうし、水から離れてしまえば回らなくなる。
もう、離れちゃいそうだよってことなのだろう。

感覚の共有

自然と人の営みのバランスっていうのは、食分野では特に大切だ。説明するまでもない。一次産業に携わる人だけでなく、流通や料理人、消費者もこの感覚が必要なのだろう。天道の成す「人にとって都合の悪いこと」を、どこまで吸収して、どの程度許容するのか。それは、一次生産者だけが引き受けることじゃないはず。

だから、食のバリューチェーンを考える時には、この感覚を共有するところから始めたらどうだろう。

流通経済が社会を支えているのは紛れもない事実。もちろん悪者にするつもりもない。ただ、その便利さのために、自然の揺らぎを一人に背負わせてしまうと無理が出ると思うのだ。そういう意味で、バリューチェーン全体で引き受けるという発想があっても良いのではないかと思うのだ。

今日も読んでいただきありがとうございます。

日本は雨が多いからこういう考え方になったのかな。自然が圧倒的なパワーを持っていて、それを完全に支配しようという考え方が薄い。一神教みたいに神様がやったことという感覚もない。とにもかくにも、よくわからない膨大なエネルギーがあるということだけを感じている。ぼくもそう思っている。
だから、自然のなすことなんだからどうしようもないじゃない。誰かのせいだとか、誰かがなんとかしてくれよというのじゃなくてさ。みんなで引き受けるより仕方ない。みたいな感じかな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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