スーパーマーケットで買い物をしていたときのこと。レジの列に並んでいると、すぐ前の人が「これも」と言って、飲みかけのペットボトルをレジ係に差し出した。
「まだ買ってないのに、開封して飲んでいるの?」
驚いた。私には、会計前に商品を消費するという発想がない。
しかし、びっくりしているのは私だけ。それほどありふれた日常なのだろう。
20年以上も前のアメリカでの出来事だ。
会計前に消費することの是非
日本では、会計前に商品を食べたり飲んだりすることは基本的にない。それどころか、のどが渇いていたとしても開封するのは店を出てから、という意識すらある。SNSの投稿を見ると、そうではない文化圏も少なくないらしい。それぞれの国の人達が自由に考えを交換できるのはSNSのいいところだ。昨今はAIのおかげで、軽々と言語の壁を超えるからなおさらだ。互いを尊重し合いながら、ではあるが。
どちらが良いかという論争はあまり意味がない。それぞれの地域にそれぞれの考え方や慣習がある。それでうまく言っているから良いじゃないか。
ただ、「なぜダメなの?」と改めて問われるとちょっと戸惑ってしまう。そこで、少し立ち止まって考えてみようと思う。
会計を済ませるまでは、商品の所有権は店のもの。という理屈がある。だから、消費するのはその後だと。これは一見筋が通っているし、個人的には納得感が強い。権利の移行は、文面化されない契約。たとえば、飲食店は後払いが多いけれど、食事を注文するタイミングでサービス契約が成立したことになっている。
そう考えると、会計前にペットボトルを飲むという行為も合点がいく。開封したタイミングで、既に契約は成立したとみなしてしまうのだ。そして、それは文面化されない契約として社会的に認められているなら問題ないだろう。
だが、日本では違う。「契約は会計のタイミングである」と認識されているはずだ。だけど、どうもそれだけが理由だとは思えない。どことなく違和感がある。所有権だとか契約といったものではなく、道徳的な感覚のほうがピンとくる。それよりも、こう言われたほうが感覚にフィットする。
私たちは、なんとなく「そういう文化」だと思って受け入れている。と。
場とシチュエーション
もしそうならば、「そういう文化」というのはどこからやってくるのだろう。なにか、通底する観念のようなものがあるのじゃないだろうか。
他の文化圏のことはよくわからないが、日本では「場」が影響していると思う。「場」というのは「場所」であると同時に、特定の「シチュエーション」を指している。「ここは◯◯をするところ」という観念があって、それが一定程度共有されている。
食料品店は食料品を購買するところ。食べるのは食卓。という具合に「場」が決まっている。教室の中では走らない。走るなら運動場か体育館にでも行きなさい。そう言われたことがある人もいるかもしれない。まるで舞台芝居のように、「場」と「振る舞い」がセットになっているのだ。そこから外れる行為は容認されにくい。
「場」と「振る舞い」の組み合わせは、あらゆるところにある。それはルールで決められているようなものではなくて、なんとなくそういう空気で決まっている。社会の合意とでも言えば良いのだろうか。電車の中では通話をしないというのも、もしかしたら「場」に支配された行為なのかもしれない。
座を変える
「場」と「振る舞い」の関係はいつからあるのだろう。思い出されるのは饗応の宴である。古くは平安時代に遡るが、宴はいくつかのシチュエーションに区切られていた。式三献と呼ばれるような儀礼をきちんと守った食事会があり、その後に少し砕けた無礼講の飲み会へと移行するのだ。その際は別の部屋で別の設えだったという。最初はきちんと御膳が並べられた環境だが、その後は車座になって語ったり謳ったりしながら酒宴を楽しんだのだ。
宴の空気を変える。振る舞いも変える。そのための装置として場を移す。というようなことをしていたのじゃないかと思うのだ。この慣習は現代にも引き継がれている。宴会の後、まだしばらくは楽しみたいという時、店を変えて飲み直すということがある。ここで帰る人がいるかも知れないという配慮もあるにはある。が、それよりも雰囲気を変えたいという意識が働いている様に思えるのだ。
もしかしたら、場を変えれば会話の内容も変わると信じている部分があるのかもしれない。たとえ同じメンバーでも、座を移すだけで振る舞いが変わるはずだと。
例えばこんなシチュエーションだ。料亭での食事は楽しく、それはそれで盛り上がった。だけど、もう少しカジュアルな場所のほうが別の側面の会話に発展するかもしれない。そう期待している。
つまり、「場」と「振る舞い」は強く紐づいていて、それらに従っているのだ。だとするなら、座を変えることで、相手の振る舞いを変えるというハックを行っていると言える。
「場」とは一体なんだろう
「場」を理解するのに役に立つのは「TPO」である。Time(時)、Place(場所)、Occasion(場合)の頭文字を合わせた和製英語だが、「時と場合に合わせた振る舞いをしましょう」ということである。
それはルールやマナーのような「決まりごと」として捉えられるのだけれど、私たちの「場」に対する感覚はそれだけではない気がしている。
私は、それを「場」に対する「敬意や調和」ではないかと考えている。
例えば、神社仏閣や教会を想像して欲しい。こうした場では、空間そのものに神聖性のようなものを感じているだろう。だからこそ空間に対して敬意を持つし、敬意があるからこそ場に相応しい振る舞いをする。場を乱さずに調和することを大切にするのだ。
こうした感覚は、世界の様々な文化で見られる。ただ、その多くは「特定の場所」で発動するものだ。特定の場所というのは、神聖性を帯びているとされる場所のこと。ところが、日本の文化では「場に対する敬意」を日常のいろんな空間に見出してしまう傾向がある。
裾野が広いと表現したほうが良いだろうか。飲食店ならば、高級店だけでなく居酒屋やファストフード店など、それぞれのスタイルに合わせた振る舞いが好ましいと感じる。この感覚は自宅まで及ぶ。リビング、客間、キッチン、トイレに至るまで。濃淡はあれど、場に対する敬意が存在する。そして、そこでの調和を大切にする「振る舞い」や「在りかた」が重視される。
長い年月の間に「空間そのものに気配が宿る」という感覚が定着した。それは特定の空間ではなく、あらゆる空間に適用されるようになった。
「場」をわきまえる
どこもかしこも「場」である。「場」は敬意と調和を求められる。そうした意識が、知らないうちにすっかりと定着している。だから、場をわきまえるという言葉が自然に聞こえるのだと思う。
例えばこう考えるたらどうだろうか。
私たちは「食品売場」が「食品売場であること」に対して敬意を持っている。
物理的な建物や設備ではなく、食品売り場としての「本性」に対する敬意。
その本性を「他の行為で乱さない、汚さない」という感覚に繋がる。
つまり、「場をわきまえる」とは「場を乱さない」に通じているのではないかと思う。
会計前にペットボトルを開封して飲む。
この行為は、食品売場としての本性を乱すことになる。
食品売場の本性には「飲み食いをする」が含まれていないからだ。
だから、この行為は社会的に容認されない。
そういうことなのだろう。
たかがスーパーマーケットの話ではある。だけど「たかが」と言ってしまうくらいに日常の些細な部分にも、私たちの日本人らしさが浸透している。そういう話でもあると思う。
良し悪しとは関係なく、私たちは「そういう文化」で生きている。
ということだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。
世界の捉え方って、文化によってホントに違うんだよね。今回の話だって「場という世界観」の違い。神聖な場所だけなのか、それ以外にも適用されるのか。何がOKで何が失礼なのか。それは世界中でバラバラだから。だからこそ、ちゃんと知ることが大切だと思うんだ。