今日のエッセイ-たろう

お米に執着する人々の文化。 2025年5月30日

米が高い。というのは、この一年ほどの世間の話題だ。高いだけでも困ってしまうのだけれど、中には米そのものが手に入らないという状況もあるらしい。田舎にいると、それなりにある程度は入手する方法を見つけることも出来るのでなんとかなっているけれど、日本料理を生業にしているものだから、米が手に入らなかったら大変なことなのだ。

先日、SNSで「みんな米に執着しすぎじゃない?米がなければパンとか蕎麦とかもあるんだし、もう少し落ち着こうよ」といった主旨のコメントを見かけた。ふむ。まぁ、それも一理ある。だいたい、これまでの数十年間の間に一人あたりの米の消費量は減少し続けてきたのだ。今頃になって、やっぱり米が食べたいだなんてどの口が言っているのか。

だけど。米に執着しすぎなのは、今に始まった話じゃないと思うのだ。こればっかりは、本人の意志を通り超えて、もしかしたら遺伝子に刻まれているのじゃないかと疑うくらいの習性だと思う。これは、理性でどうこうなるものではない。

たべものラジオでも「圧倒的な主食」と表現したが、ぼくらは歴史的に米に執着しすぎる食文化を有していて、その食文化の中に生まれ落ちたのだ。

いくつかの食文化比較の書物で「主食」について言及されている箇所がある。ざっくり要約すると、日本人が感じている「主食」は、他の国のそれとは大きく違うということ。特に、ヨーロッパ系には、日本人と同じ感覚で捉えるような「主食」は存在しない。

フランス革命は、女性たちの「パンをよこせ」という声から始まった。エンゲルスによるロンドンの労働者階級の生活の記録でも、パンだけの食事でもマシなほうで貧しい家族はパンの代わりにじゃがいもを食べていると記している。こう見ると、主食っぽいではないか。けれども、14世紀の庶民の暮らしの記録や、納税としての食品を見ていると、パンも家畜も同列の食べ物として扱われている傾向がある。どちらが贅沢かといえば、それはチーズや肉ということになるのだけれど、それはただのヒエラルキーであって、どんなに贅沢なおかずが並んでいてもそれだけではダメだ、パンだけはなくてはならない、ということにはならないのだ。実際、近世までの欧州の貴族や、近代以降のコース料理ではパンはそのように扱われる。究極の選択として、例えば戦いで籠城するとなったときに、パンか家畜のどちらかしか選べないとなったらヨーロッパでは家畜を選び、日本では米を選ぶ。第一次世界大戦でパリが包囲されたときには実際にそうだったらしい。

なにがなくとも米が食べたい。普段はパンやパスタに浮気していて、そのおかげで国全体の米の消費量が少なくなったとしても、やっぱり米があることが大事なのだ。食べたいと思ったときに食べられること。この感覚こそが、たぶん僕らに埋め込まれたものだろう。

餃子をおかずにしてご飯を食べるけれど、そもそも餃子というのはサンドイッチやおにぎりみたいな存在で、おかずを中に包んだ食事なのだ。だから、点心の餃子は皮が分厚く大きい。お米を食べたいばっかりに、餃子を現在の焼き餃子の形にしてしまったといえる。そんな馬鹿なと思うかもしれないけれど、お好み焼き定食もラーメンライスも似たような構造だろう。なぜ蕎麦屋に天丼がつきものなのか、というのを考えれば答えは自然と定まる。

この比較で、少しは伝わるだろうか。日本人は、お米を圧倒的な主役として位置づけていて、主食と副菜という主従関係を見ている。そういう構造を見ている地域なんて、そうは無いのだ。ぼくが思いつくだけでもそれなりに事例はあるけれど、もうきりがないのでこの辺にしておくけど、この視点で観察すると食文化の比較としてちょっと面白いのでおすすめしておく。

今日も読んでいただきありがとうございます。冷静になろうよ、という主張もわかるんだよね。そりゃそうなんだけどさ。もう、米っていうのは意識できていないだけで信仰みたいになっちゃってるからね。そりゃ大騒ぎするってものだろうと思うんだよ。令和の米騒動を食文化の視点で見るとこんな感じ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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