今日のエッセイ-たろう

なぜ私達は、無駄を愛してしまうのか。

「料理は遊びだ」という考え方を前提に日々料理を作っている。だからこそ、そこに文化が生まれるのだと。そんなふうに考えているのだ。これは時々書いていることだから、読者の中には覚えている人もいるかも知れない。今回は、日本の食文化に埋め込まれた遊びについて、その思想のルーツを考えてみたいと思っている。

合理性の高い食

ホモ・サピエンスにとって、最も合理的な食ってどんなものだろう。シンプルに考えれば、「健康的に生きるために必要な栄養素を摂取する」ことが、最適解。それと同時に、余計なものを摂取しないことも大切だ。体に負荷がかかるものや毒素は取り入れないほうが良いし、食べ物のすべてをエネルギーや体組成に使い切れるほうが効率がいい。とにかく無駄がないことが肝心だ。

生産効率だって高いほうが良い。なるべく少ないエネルギーでより質の高い栄養をたくさん確保できたら、それに越したことはない。人類は、かなり多くの時間を「食料の獲得」に費やしてきた。むしろ、それが生活の中心だと言っても良い。他のことをしようと思ったら、なるべく食料の確保に費やす時間は少ないほうが良い。だから、一人では難しいけれど、社会の皆で合理的な生産システムを作ってきたのだ。

合理性を追求した先には何があるのだろう。究極的にはエネルギーチャージが出来れば良いわけだから、点滴が最適解なんてことになるのだろうか。だとするなら、「おいしさ」という感覚はいずれ退化して消失するのだろうか。
漫画「ドラゴンボール」に登場する「仙豆」を思い出す。一粒食べるだけで1週間は食べなくても良いとされる完全栄養食。漫画の中では、超希少な特別な食べ物とされているから生産効率が良いとは言えない。でも、いつか科学の力で実現できる日が来るとしたら、ぼくらは「食事」から切り離されるかもしれない。

非合理のかたまり

会席料理などは、合理性の対極にあると言って良い食文化だろう。人が生きていくうえで必須のものではない。一生会席料理を食べなくても充分に幸福な人生を送ることは出来る。

日本の伝統的な包丁技術の中に、飾り切りというものがある。一般的に知られているのは、梅人参だろうか。梅や紅葉などの植物を模したものや、波などの自然を表現したもの、市松模様や結び目を象ったものなど様々な技法が生み出されている。中には、カエルや蝶、ツルといったものまであるのだ。

これらは栄養摂取や生産性には一切貢献していない。もっと言ってしまえば、味にも寄与しないものも少なくないのである。
そして、この非合理な料理を愛でて楽しむ人が大勢いて、いつしか「文化」として定着していった。文化とは、「合理的なもの」の外側に生まれるものなのかもしれない。

遊びの文化

飾り切りの中には、「おいしさ」や「食べやすさ」に寄与しているものもある。たぶん、包丁技術の始まりは実用性にあったのだと思う。ただ、素晴らしい包丁とそれを巧みに使う技を身に着けた人たちが、その技を使って遊びを始めたのだろう。勝手な妄想だけれど、モチベーションは「表現したい」ではなく「出来るからやってみよう」という類のもの。それは、砂場で遊ぶ子どもたちが意図もなく山を作りトンネルを掘るのと似ている気がする。遊ぶために遊ぶのであって、クリエイティブな意図などから生まれたものではないと思うのだ。

遊びとしての料理を考える時、よくヨハン・ホイジンガのホモ・ルーデンスを参照してきた。遊びについて考えたことがある人なら、一度は触れることになるのだろうか。だけど、日本の料理や伝統工芸に埋め込まれた遊びは、どこかホイジンガのそれとも違うような気もする。この違和感がどこから来るのかはわからなかったのだけれど、ある時ふと気がついた。ホイジンガの遊びは「枠の中の遊び」だけど、日本の遊びは生活の中に溶け込んでいるのではないか。そう考えたら、もしかしたら道教に通じるものがあるのかもしれないと思うようになった。

春秋戦国時代の諸子百家の一人荘子や、道教ともつながりの深い禅宗。詳しく調べたわけではないので思い込みも多いだろうけれど、どうもこのあたりに日本的な遊びのルーツがあるような気がしている。

荘子の一節に「故に始まり、性に長じ、命になる」という言葉が出てくる。故というのは、生まれ持った因果と解釈するのが良いだろうか。生まれた場所や、その地域の伝統や慣習、先祖などからの影響があって、スタートはそこだと。で、性というのは、長年無意識のうちにやってしまうことと解釈している。ぼくの場合、食や食文化の話だったら何時間でも話していられる、というようなこと。長じるということは、馴染んでくるという感覚に近いかもしれない。何も考えずに手が動くような、そういう職人の極みみたいな感覚。そうやって板についてくると、自然と遊びが生まれてくる。原稿を一生懸命覚えて喋っているうちは遊びがない。覚えたものを再現しようと思わなくなった頃に遊びが生まれる。そこまでいくと、命。つまり自然の理に沿った生き様に達するという。

伝統工芸などの職人は、現代風に言うならば「凝り性のオタク」である。誰のためでもなければ、機能性を求めるのでもなく(仮に機能的なものだったとしても)、作りたいから作る。それが日本の遊びであり、ものづくりなのだろう。

今日も読んでいただきありがとうございます。

禅宗で無邪気に遊ぶと言えば良寛を思い浮かべるかな。彼は純真な子どもが大好きで、子どもたちと一緒にかくれんぼや鞠つきなどをして遊んだんだ。かくれんぼで隠れているときに村人に声をかけられて、見つかってしまうではないかと本気で怒った、という逸話もあるくらいに無邪気に遊んだみたい。どうもね。ぼくは日本の職人たちの中に良寛がいるんじゃないかと思うんだよ。

「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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