今日のエッセイ-たろう

タレなのか塩なのか、それが問題だ。⋯⋯いや、問題なのか? 2025年12月10日

世の中にはいろんな“◯◯論争”というものがある。「2つの選択肢のうちどちらがより好ましいか」ということを論じ合うもの。資本主義と社会主義、民主主義と権威主義という難しい論争もあれば、きのこたけのこ戦争という可愛らしい論争までさまざま。

先日、居酒屋で耳にしたのは「タレ派vs塩派」論争だ。

ぼくは、料理人であり食文化探求家だ。そう名乗るならば、これにはハッキリと決着をつけねばなるまい。答えはこうだ。どっちでもいい。
なんて、言ってしまうと身も蓋もない話だけど、それなりに理由がある。お察しの通り「どっちも良いところがあって、両方美味しいよね」というのは、その通り。だけど、それだけじゃない理由があるのだ。

結局のところ…状況による

一般的に、塩焼きのほうが”素材の味がわかりやすい”と言われている。ここが“塩派”が主張するポイントだ。確かにそのとおり。ただ、塩味のほうがわかり”やすい”というだけで、タレ味にすると”わからなくなる”ってことにはならない。素直に「塩味が好きなんだよ!」って言えば良いんじゃないかと思っている。

塩派に対して否定的に聞こえるかもしれないけれど、ぼくだって塩焼きが好きだ。ただ、天ぷらも塩、そばも塩、サラダも塩、なんでも塩・塩・塩じゃ味気ないじゃない。その時の気分や、他の料理や酒との相性を考えて好きな方を選ぶだけ。だいたい、天ぷら定食なら天つゆのほうがご飯が進むってもんじゃない?というのは、独りよがりかもしれないけど、好みなんてそんなものだ。

素材に合わせた料理

この論争を耳にするのは、たいてい”焼き鳥”か”焼き肉”。なぜか”肉料理”に限定されるらしい。タレ焼きにするか塩焼きにするかということなら、ブリやウナギも論争の対象になっても良いはず。だけど、魚に関してはあまり聞かれないのが不思議である。

以前、手土産に上等な焼売をいただいたことがある。その時、たまたま冷蔵庫に手頃な量産品の焼売が入っていたので、いい機会だから食べ比べしてみようということになった。料理屋の厨房で「食べ比べ」といったら、それはもう"真剣な比較検証”だ。

まずは調味料を一切つけずに味見するところから。
ひとくち食べてみて、上等なものは味が濃いのがわかる。と同時に、野性味というか“獣っぽさ”が立つ。一方、量産品は食べやすい分あっさりした印象。
次は醤油をつけて食べてみる。上等なものは、醤油のおかげで獣臭さがマスキングされ、旨味がぐっと加速した印象だ。量産品は、醤油の味が前に出過ぎて肉の味が遠ざかったかのように感じる。

…なるほど、肉と醤油はこんなに相性がいいのか。おそるべし醤油パワー。

そう言えば、古い時代から肉料理と言えば味噌仕立てが主流だったことを思い出した。焼き鳥もたぬき汁も、味噌を使った記録が多い。フグだって、江戸期に最も食べられていたという“ふくと汁”は味噌味。刺し身は現代に比べて希少な料理だったが、やっぱり酢味噌や煎り酒である。
つまり、獣、鳥、魚など“匂い”が気になる未加工素材は、“塩味”が少ない。シンプルな塩味は、素材の味がもろに出るために臭みが際立ってしまったのだろう。

料理というのは、素材の特性に沿った味付けが基本。なんて基本的なことを思い出させてくれる。

一周回って進化系

想像だけど、日本で味噌や醤油が発達する前の味付けは塩や酢が中心だったんじゃないだろうか。他に選択肢がない。気になる匂いは、野菜やハーブなどを使ってマスキングしていたのかもしれない。発酵調味料が登場したことで、動物性タンパク質を手軽に美味しく食べられるようになった。
改めて、調味料ってすごい発明だったんだな、としみじみ感じる。

時代は下って、近現代。西洋から家畜の養殖技術や、その調理方法などが伝えられる。最初の頃は、まだ獣臭さなどはあっただろうし、冷蔵保存技術も未熟だったから、そこそこ匂いのきつい肉が出回っていたことだろう。ちょっとずつ技術が発展して、新鮮な匂いの少ない“近代価値観における上質な肉”が出回るようになっていく。そうすると、“匂い消し”の意義は薄まっていき、シンプルに素材の味を楽しむという文化が広がっていく。

元来、日本には素材の味を尊重する“引き算”の食文化がある。素材そのものに対する執着みたいなものがあるのかもしれない。そういう感性が、西洋料理流行の反動としてたち現れたような気がするのだ。そうした中で、原点に帰ってシンプルな塩味が復興する。
そう考えると塩派っていうのは、日本文化をとても現代的にとらえた潮流なんじゃないかと思えてくる。

今日も読んでいただきありがとうございます

「おいしい」「いい匂い」というのは、絶対値じゃないんだよね。時代や社会によってぜんぜん違う。そのうえ、素材だってどんどん変わっていく。“タレ派塩派論争”も、もしかしたら新しい文化なのかもしれない。
ともあれ、そんな“おいしい論争”をしながら食べ比べて、「どっちもうま〜い」と笑ってるのが、幸せだったりするんだよね。あぁ、焼き鳥食べたくなってきたな。誰か一緒に行こう。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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