AIという言葉は、もうほとんど誰もが知っている程度の認知度を得たし、いつの間にか手軽に使えるようにもなっている。検索エンジンやSNSとも連動していて、使おうと思わなくても恩恵を受けている。とても便利になったと思う。
やろうと思えば、たべものラジオの原稿だってAIを活用することが出来る。調査に関してはChatGPTなどのモデルではやや頼りないけれど、専用のデータをインプットしたソフトを用意すればかなり精度が高くなるだろう。構成なら、すぐにでもAIを活用することも出来るし、そのほうが効率がいい。
で、少し試してみた。試してみたんだけど、どうもうまくいかない。上手くいかないのは使いこなせていないということもあるのだけど、感覚的にしっくりこないのである。便利だけどツマンナイ。という感覚。
勉強して、自分なりに考察して悩んでみたり、どう伝えようかと構成を考えてみたり。そういう過程そのものが「楽しい」のだ。過程が楽しいのに、便利だからといって過程をAIに委ねてしまっては、楽しみを手放していることになる。登山が好きだというのに、便利だからといって車やロープウェイで山頂に到達するようなものだ。
過程が楽しい。という感情はどこからくるのだろう。想像もつかないけれど、きっと誰にでも何かしらの楽しみがあるのだろうと思う。料理をする行為そのものが楽しいという人もいれば、自らの手で作った料理を食べさせるということが楽しいという人もいる。一方で、料理という作業が面倒で仕方ないという人だっている。理由はともかく、人ってそういうところがあるのだ。
そう考えると、便利なツールの使い所を探さなくちゃいけない。自分にとって、何が楽しくて何が楽しくない作業なのか。例えば料理だったら、味付けをしたり加熱調理をしているときは楽しいけれど、下ごしらえは嫌いという人もいるかもしれない。オーブンはやっぱり炎が良いよねというのも楽しさに繋がるし、使い終わった調理器具を洗うのは出来るだけしたくないという人もいる。そんなふうに、楽しさのポイントが人それぞれならば、それぞれの人に合ったツールの選び方や使い方があるはずだ。
便利なツールは選択肢を増やしてくれるし、楽しさを加速させてくれる側面がある。一方で、楽しみを奪うこともある。移動は車が便利でいいよね。というのが圧倒的多数になった結果、車中心の道路が敷かれ車中心の都市が作られた。そうしたら、徒歩旅を楽しみたい人が歩きづらいとか、場所によっては歩行者が立ち入ることすら難しい環境にしてしまったという例もある。マジョリティかつ声の大きい人達だけに合わせると、実は言えなかったけどホントは悲しかったというマイノリティの楽しみを奪うこともありうる。
以前、弟がこんな事を言っていた。「みんなきゅうりを育てたら良い」
安定した食料システムが完成している社会では、そのシステムは外部化したインフラとなって、そのものがどのようにして駆動しているかを考えなくなる。見えなくなるだけじゃなくて考えなくなるのだ。で、無機質なインフラの中に、実は人がいて、そこにいる人の感情すらも考えようとしなくなる。外部化されると、それは何をしても良いという対象になってしまうのだ、と東京大学大学院の福永真弓さんは指摘している。だからこそ、きゅうりを育てるのだ。言葉じゃなくて、感覚で捉えに行く。それが腑に落ちるという感覚を助けてくれるから。
過程が楽しいというのは、言語による理解ではなくて体験によるもの。理屈では説明できないけれど、体験を通じて感覚的に理解していることって、きっと誰にでもひとつくらいはあるだろうと思う。便利なツールの使い所を間違えると、この体験を得る機会を失ってしまうかもしれない。というのが危惧するところだ。
テクノロジーの進歩はとてもいいことだと思うし、なによりワクワクする。それも僕にとっては楽しい出来事だし、例えば最新テクノロジーの詰まった調理器具を与えられたら、いろいろと試して遊んでみたいという感覚がある。だからこそ、前述のような危機感も持っている。
だから、使い方のパーソナライゼーションと、いつでも前のステップに戻れる柔軟性を、常に心に留め置きながらテクノロジーと付き合っていくのが良いだろうと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。調べて考察して構成する。この作業を、チームでやったらもっと楽しいだろうな。共同作業が好きなんだよね、きっと。あれこれ言い合いながら、なんとかして形にしていく。過程も楽しいし、完成したら嬉しい。効率を考えてもそのほうが良いのかもしれないけれど、それよりも楽しそうという感覚が先に立つ。ただ、その場をセッティングしたりモデレートしたりするのは好きじゃないんだよ。困ったもんだ。こういうところをテクノロジーでカバーするとか、外部委託するとか。そういうことなんだろうな。