今日のエッセイ-たろう

特別なゴミの捨て方。2023年11月8日

この仕事をしていて、ずっとゴミのことを気にしている気がする。五味とゴミ。音が同じでややこしいが、料理屋にとってはどちらも大切なことだ。

料理をしようとすると、必ずゴミが出る。野菜でも魚でも、食べることが出来ない部分があるのだから、どうしようもない。ただ、ぼくらは修行時代からゴミを減らすことを当たり前のように指導されてきた。今でも「極力ゴミにしない」という精神は根付いている。

野菜の皮のように、捨てられやすい部分もなるべく食べられるように調理する。そのためにレシピというものが存在しているんじゃないかとすら思うくらいだ。大根でも人参でも、皮を捨てることに抵抗感があるくらいになった。出汁をとり終わった昆布は、気がつくと冷凍庫に溜まってしまうこともある。すぐに使い道が思いつかないのならば廃棄しても良さそうなものだけれど、どうも抵抗感があってなかなか捨てることが出来ない。そんな父の気持ちもよく分かる。

捨てる。これは、人間が生きていく上では必ず必要な作業。なのだけれど、捨て難いものっていうのもある。捨てるときだって、なんだか普通のゴミと一緒にするのが申し訳ないような気持ちになるようなものもある。

手紙や名刺。長年連れ添ってきた服。プレゼントで貰ったもの。子供が作ったもの。なんとなく、自分との距離が近かったり、思い入れがあるというほどではないけれど思い出が紐づいていたりすると、どうにも捨てにくい。捨てるにしても、他の生活ゴミと一緒くたにしてしまうのには抵抗があるのだ。

延長された表現型という概念はリチャード・ドーキンスだったか。肌に触れる洋服は、体の一部のように振る舞っている。ぼくらが自らの手のように包丁を自在に扱う時、それは延長された表現型になる。自分の一部と繋がっているもの。その範囲がどこまでなのか。どんな繋がりなのか。人それぞれに違うけれど、ぼくの場合は上記に上げたような品物が該当するのだろう。

こうしたモノは、ぼくにとっての「特別なゴミ」だ。

特別なゴミという感覚は、ぼく個人だけの概念ではない。社会全体に存在していたはずだ。正月飾りを、他の生活ゴミと一緒に捨てることに抵抗感がある人も少なくないだろう。どうやら世代によって傾向があるらしいのだけど、一定の年齢より上の人たちには共感してもらえそうだ。

正月飾りに限ったことではないけれど、こうした飾り物は人のためではなく神様をお迎えするためのもの。神様に提供したものだ。神様のものを、ぼくが鼻を噛んだティッシュと一緒にするわけにはいくまい。

特別なゴミは、どうやって処分してきたのだろうか。燃やす、水に流す、埋めるといったことが考えられる。どんど焼きのように地域社会で炎にくべるのは、なんとなく神聖な気分になるのだが、よくよく考えればやっていることはごみ焼却場と同じ。現代では、法律によって勝手にゴミを燃やすことは出来ないし、川に流すのも駄目。ということになっているのだけれど、昔は一般ゴミも同じように処分してきたはずだ。特別なゴミと生活ゴミの処理の仕方には、何が違うのだろう。

ここにハレとケの概念を持ち込むのは、少しばかり乱暴な気もする。けれども、何かしら近いものを感じているのだが、どうだろう。生活の中の特異点をハレとするならば、それ以外のケと入り交じることはタブーのように捉えられるのかもしれない。タブーと表現すると大袈裟な感があるので、ケジメというのが良いだろうか。

いずれにしても、僕たちが何をどのように認知しているか、がケジメの境界を規定するのだろう。そしてそれは、日常の習慣や社会の慣習によって、ふわりふわりと漂うように変化し続けている。

今日も読んでくれてありがとうございます。歯磨きをしないとなんとなく気持ち悪い。くらいの感覚で、大根の皮を捨てるのに気が引ける。こういうのって、習慣から醸成されるのかもね。人によっては、手軽にしめ飾りをゴミ袋に入れられるってこともあるし、写真を捨てるのにも抵抗がないっていう人もいるもんね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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