移動できるって、実はけっこう贅沢なことなんだ。旅行に行こうと思えば行けるし、引っ越すことだってできる。だけど、歴史を振り返ると“好きなときに好きな場所へ”なんてのは、むしろ例外だった。
移動の歴史
元々、人という生き物は移動することが当たり前だった。アフリカ大陸に登場したホモ・サピエンスが、遥か遠く日本までやってきたのだ。もちろん、移動や移住は実にゆっくりとしたものだったはず。ちょっとでも快適な生活環境を求めて、少しずつ移動してきたのだろう。たぶん、木の実や獣などの食料を求めて旅をしたのじゃないだろうか。
やがて、農耕のようなものが始まると、徐々に定住するようになっていく。あちこち探し回らなくても食べ物が手に入る。そんな環境を自分たちの努力で作り上げていった。これで、移動しなくても生きていける。でも、それと同時に、勝手に移動されては困るという状況でもあっただろう。農耕文化というのは、多くの人が協力し合うことで成立するものだからだ。
農耕を中心とした社会が、ある程度回るようになってくると、人口が増えてくる。今度は、多くなりすぎた人口のせいで食糧不足になっていく。その土地で生産できる食料には上限があるからだ。そして、集落の一部の人達はまた旅に出ることになっていくのだ。
移動のパターン
移動は、シンプルに“帰ってくるかどうか”で分類することが出来るだろう。ホモ・サピエンスが拡散したプロセスでは、別の場所に居住地を築いて帰ってこないし、近隣の森に食料を獲得しに行くときは、帰って来る。時間や距離の長さに関わらず、ざっくりと2つのパターンに分けられそうだ。
基本的に、“居住地に帰る”ことのほうが、機会としては多いだろう。ぼくは、10回以上の引っ越しを経験してきた。たしかに、“戻らない移動”としては平均よりも多いかもしれないけれど、“戻る移動”のほうが圧倒的に多い。買い物に行ったり、食事に出かけたり。仕事のために会社に行ったり、遠くへと出かけていったりする。楽しみのための旅行も、買い物よりはずっと多いけど、引っ越しよりはずっと少ない。
移動は贅沢
“旅行”とはつまり、「ちゃんと帰って来るつもりの長い移動」のこと。これが実は、とても贅沢なことなのだ。多くの人にとって、生活と仕事はひとつの地域にあるもので、どちらの活動も“継続”が前提になっている。だから、一定期間の不在は、生活も仕事も一旦は中断することになる。これを許容できるかどうか、というのが分かれ目なのだろう。
まずひとつに、移動コストを賄えるというのは、いろんな社会で一部の人だけのことだった。交通費、宿泊費、食費などの出費は誰しも想像しやすいところだろう。お金が出ていく一方で、収入が滞る人もいる。
それから、継続的な作業を中断できるというのも限られた人のものだった。例えば農作業は、日々連続した数ヶ月に及ぶ生産活動だ。途中で手を止めれば作物が育たないこともある。だから、江戸時代の旅は冬が多いのだが、それも農家で旅に出られるのは限られた人の話。それ以外に時間を捻出出来るのは、お盆と年末年始だけなのだ。もし、作物を育てている間に出かけるとしたら、家族や地域の誰かに作業を負担してもらうことになるだろう。現代は一年中仕事をしているのが当たり前の社会だから、そういう意味では江戸期の農家と同じ状況なのだ。
考えてみれば、企業のお盆休みとか有給休暇っていうのは“人類の知恵の結晶”なのかもしれない。休んでも仕事が滞らない仕組みなのだ。それが、幸福に繋がっているのかどうかは別の話だけど。
移動が常態化した人々
例外的に、移動することが日常になっている人たちもいた。まず、キャラバンや連雀商人と呼ばれた行商人である。物品を運ぶことを商売にしているのだから当然である。訪問先で物を販売し、また仕入れて別の場所で売る。現代でも物流を担う人たちにとっては移動は日常だ。
それ以外には、例えば政治や宗教に関わる人々が挙げられるだろうか。外交や布教のために出かけていって、各地で“話をする”ことが仕事になる。行商人と違うのは、基本的なコストの負担は居住地の組織などが支えていること。みんなの代表として出かけていくことを、仕事を委託されている。現代でも、企業の出張というのは、同じ仕組みだろう。物ではなく、人と人との交流そのものに価値があって仕事になるケース。ただ、これは平均よりも移動回数が多いというだけで、キャラバンのように常態化したとまでは言えないかもしれない。
社会情勢と移動
たべものラジオでは、食と人との関わりについて歴史や社会背景について調べて語っている。同じ様に、移動についても考察する必要があって、ちょっとずつ勉強しているのだ。今回は、情報整理のためにも簡単にまとめてみた。やはり、人類の移動に関しても、その時々の社会背景が大きく影響しているように見える。
近年の社会情勢を見ると、“贅沢な移動”は、再び一部の人達のものになりつつあるようだ。たまの休みに旅行に行こうと思っても、旅費が高くて出かけられないという声も耳にすることがある。確かに、家族で旅行するとなると、まとまった時間とお金が必要になる。なかなか自由にならないという人も、従前よりも増えてきているのだろう。
少し寂しく思う反面、「移動できること」に価値を感じることが出来るチャンスかもしれない。今まで当たり前だと思っていたことも、実は豊かで贅沢なことなんだと。
今日も読んでいただきありがとうございます。旅行の代わりに、いつもとは違う食事を楽しみたいという人もいる。コロナ禍では、そういったお客様が当店にもいらっしゃった。そして、今度は別の理由で「食の楽しみ」を選んでいる。外食だけでなく、野外でのバーベキューや鍋パーティーなど、いろんなバリエーションがあって、それはそれで豊かなことだ。こうしたことが何度も繰り返されていくうちに、「食の楽しみ」が「定番化」していくことがある。
きっと「ハレの食事」っていうのは、こうやって生まれてきたんだろうな。食事という小さな贅沢と、楽しみとしての“遊び心”。その積み重ねが育てた食文化かもしれない。