日本の魚の消費というか、食文化はずいぶんと大きく変化した。江戸時代とか、それ以前とは社会環境が大きく違うのだから当然と言えば当然なのだけれど、そういう長い歴史的視点で見なくても、人間の一生くらいの時間の長さでも変化が著しい。
今から半世紀くらい前だったら、鯛とかヒラメとかチヌなんていう魚は、現代よりももっと高級魚だった。チヌと聞いてもピンとこない人もいるかも知れないけれど、クロダイのこと。市場だとキロ単価1000円前後だし、浜値なら数百円といったところだけど、4000〜5000円なんていうのが当たり前だった時代がある。鯛なんて、万単位で取引されていたらしい。今でこそ回転寿司でも提供されるようになっているけれど、そんな高級魚を食べられるのは限られた人、もしくは特別なときだった。
魚は野菜以上に日持ちがしない。どれだけ豊漁だとしても、それを保存しておいて何日もかけて売るわけにはいかない。というのが当たり前だった。冷蔵技術が発達したことで、それが可能になったし、冷蔵したり冷凍したりして遠くまで運ぶことが出来るようになった。道路や橋が建設されて、流通網が整備されたのも大きい。販売するマーケットが物理的にも時間的に拡大したことで、大量の魚を大量に販売することが出来るようになった。マーケットが拡大すると、安定的に大量に生産できたほうが利益が出るわけだから、当然の帰結として養殖業が盛んになる。おかげで、ぼくらは美味しい魚を安く手に入れることができるようになったわけだけれど、代わりに漁業は苦しくなっていく。船だけでも数千万円の投資が必要な上に、ランニングコストもかかる。だけど、売値は下がっていく。
酪農なんかもそうだけど、イギリスで産業革命が起きるころが転機だろう。ノーフォーク農法が確立してからというもの、食料生産が利益獲得と結びついたのだ。それが、工場的な生産体制と結びついて、プランテーションへと発展していく。日本でも似たような現象が同時代に起きている。化石燃料の代わりに水車という動力を工夫して、それを活用できる産業は大きく伸びた。この構造をあらゆる産業に適用しようとすると、漁業も前述のような変化が生まれる。元々、食料生産というのは利益獲得とは切り離されて考えら得ていた時代が長かったんだけどね。
ボラはホントに可哀想な扱いになった。「ボラの身は臭い」とか言われるようになって、ドンドン価値が下がってしまった。一番扱いが酷かった時代は、魚卵だけをとって他は二束三文で売られたり捨てられたりしたこともあるらしい。ボラの卵はカラスミとして利益が出るから。19世紀のアメリカにおけるクジラのような扱いだ。
ボラは、とても身近で庶民の魚食と密接だった。50㎝〜1mくらいのものが多いので、それなりにサイズがあるし、塩焼、煮物、天ぷら、刺し身など料理の幅も広いし、味の良い食用魚。環境さえ整っていれば大量に生息していて、安定して漁獲できるのだから、便利な存在だったのである。
「とどのつまり」という慣用句があるが、出世魚であるボラは大きくなるにつれて呼び名が変わって、一番大きいものを「トド」と呼ぶことから来ている。これ以上大きくならないということから、「結局」とか「行き着くところ」という意味になっている。一般慣用句で使われるほどには身近な存在だったのだ。
ボラの身が臭いのは、ボラそのもののせいではなくて、人間のせい。高度経済成長期に沿岸水域の汚染が進んだことで臭くなってしまった。1kgを超えたところ辺りからトドと呼ばれ始めるのだけれど、近年では2〜3kg程度の個体も増えていて、温暖化の影響だと考えられている。水質さえ良くなれば、当たり前のように食卓に並ぶようになるかもしれない。
どんな魚も、基本的に臭みの原因は決まっている。エラの部分、それから魚によっては体表のぬめり、あとは血液だ。魚食において血抜き処理はとても大切。漁獲したらすぐに血抜きをすることで、その後の食味を良くすることが出来る。それに、締め方ひとつで味の劣化具合にも影響する。どんなに良い魚でも処理が良くなければ、料理する前の段階で美味しくなくなってしまう。だから、美味しい魚料理というのは、漁獲の段階から始まっているのだ。
今ではかなり良くなったが、一時期外国産の魚が美味しくないと言われていた理由はこれにある。そもそも海は繋がっているのだから近隣国で漁獲された魚が、さほど大きく味が違う訳が無い。水域の状況が違うとしても、例えば経済的排他水域の境目あたりで取れた魚は、どちらの漁港に水揚げされたとしても差は無いはずなのだ。それでも味に違いが出るのは、丁寧に処理されているかどうかにかかっている。
魚に限った話ではないだろうけれど、料理は調理場から始まる作業だけではないということだ。料理屋が美味しい刺身を提供できるのは、美味しい魚を用意してくれる人たちがいるから。そのうえで、料理人はその味を損ねないように丁寧に調理する。直接顔を合わせる機会は少ないけれど、ネットワーク全体の連携プレイがあるからこそ、日本の食事はおいしい。
日本の食事は美味しいと評価が高い。海外からも注目されていて誇らしい気持ちになるけれど、それを支えているのは料理人だけじゃないし、加工業者だけでもない。生産から消費までに関わるすべての人達が丁寧に丁寧に食材に向き合うからこそ可能なことだし、そのためにも動物や植物が住まう環境を整えることが大切だ。食に対する向き合い方が、実に日本的だし、禅の心が生きていると感じる。全員が真摯に、かつマニアックに技術や考え方を突き詰めること。
つまり、日本の食文化は特定の人たちだけの誇りなのではなく、社会全体の誇りといえる。国際経済のことを考えても、日本の食文化はキラーコンテンツになると言われている。だからこそ、それぞれのプレイヤーが活躍できる社会を作らなくちゃいけないし、そのための仕組みが大切なのだろうと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。料理が美味しいって褒めてもらえると、それは本当に嬉しい。なんだけど、それって僕のおかげじゃないんだよなぁ、と思うことのほうが多いんだよね。鰹節だって、味噌や醤油だって、ぼくが作ったわけじゃないもの。野菜も魚も、自然環境とか携わる人のお陰で美味しい。ありがたいことだ。