「モノマネ」から始める創作術:模倣を通じたオリジナリティの発見 2023年3月11日

ぼくは、基本的に何かを始めるときには誰かの模倣から始める。現代では、大抵のことは先駆者が存在している。イノベーションを起こして、先には誰もいないということを始めるスゴい人もいるけれど、それはぼくじゃない。だから、先駆者の知見を学ぶためにも「モノマネ」から入ることが多い。

これも、ぼくがやり始めたことじゃないことくらいは誰でも知っているだろう。守破離という言葉もあるし、絵を描く人は美術館などで模写をしているだろうし、バンドマンならコピーをするだろうし、どこにでもあることだ。

この模倣という行為はいくつかの意味があるのだろう。模倣することで、先駆者の技術を深く学ぶことも出来るかもしれない。筆使い、演奏の癖、盛り付けのパターン、話の構成。何でも良い、そうした先駆者の知見を学ぶ。

学ぶといっても、頭で理解するだけではなく体で再現できるようにしていく。そういう模倣の仕方がよく行われている。だから、そのうちに先駆者の思考や思想にまで手が届くような気がしてくるのだ。ある程度習熟してくると、どこで苦労していたのか、それを乗り越えるためにどんな工夫をしたのかも透けて見えてくることもある。

こうした地道な作業を繰り返していくことが、身を重ねるということだろう。相手の創作物に、自分の創作物を重ねること。それが、いつの間にか身を重ねていくことになる。

そうしていくと、いつかどこかで決定的なことに気がつく。どこまで重ね合わせても、どうしても重ならない部分がある。どんなに苦労して工夫しても、お手本のそれには重ならない。それは、素人目には感じられないほどの僅かなものかもしれない。けれど、重ねようとすればするほど、その差異が際立ってくるようなことがあるだろう。

それこそが、個性でありオリジナリティの発見なのではないかと思う。レプリカを作ろうとしているのならば、それはマイナスに働くかもしれない。けれども、多く作家にとっては貴重なオリジナリティなのだ。いくつもの模倣を繰り返していく中で、積み上げていくオリジナリティ。

今度は、このオリジナリティに立脚した創作のフェーズに入る。それが守破離の破に当たる部分なのではないかと思う。いつだったか、似たようなことを書いたかもしれない。似せようとすればするほど差異が際立ってしまう。そこが原点になる。

今までと同じ絵を模写する。しかし、今度は自らのオリジナリティに立脚して、模写を進めるのだ。もう似ていないだろう。明らかに、それは自分の個性が反映されているし、それを隠すことなく表現するのだ。

この作業をひたすら繰り返して、ついにはオリジナルの作品へと昇華していく。このタイミングこそが守破離の「離」に当たるのかもしれない。

しばらく前は、守を繰り返すことで技術や思想が蓄積されるイメージをしていた。いろんなタイプの守を繰り返して、自分なりの解釈で足し算していく。そうすると、他の人にはないオリジナリティになるのだろう、と。

けれども、それは結局誰かの模倣の範囲から抜け出せないのかもしれない。あの人にも似ているし、同時にこの人にも似ている。たまたまラジオから流れる流行歌を聞いた時に、あの時代のあれと、この時代のこれのミックスのように聞こえることがある。錯覚かも知れないが、そのように聞こえるのだから仕方がない。おそらく、複数の人の良いところどりでミックスするとそのような現象につながるのだろう。

重ねても重ねても、どうにも重ならないもの。複数のもので試してみて、最後に残る重ならない部分。この思考は、ミックスとは真逆の引き算の思考だ。引き算をするために、とにかく重ね続ける。引き算というよりも、方程式のような発想に近いのかもしれない。全体の式をaでくくってみる。さらにBでくくってみる。というような具合に、重なりの係数を式の外側に出していく。そうして繰り返してみて、最後にどうにもくくれないようなものが、個性の核になるのだろうか。

今日も読んでくれてありがとうございます。毎日毎日、妄想しながら文章を書いているうちにこんな思考になったんだよね。で、実際に料理でやってみるのだけれど、まぁなかなかうまくいかない。模倣がメチャクチャ難しいのだ。とにかく手本のレベルが高い。高くなくちゃ手本にならないのだからそうなる。で、とんでもない数のバリエーションがあって、それをイチイチ丁寧に作っていく作業は途方もない時間と労力と技術を要するのだ。きっと、世界中のクリエイターが生み出してきた素晴らしい作品は、そうした積み上げの上に成り立っているんだろうね。

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