読書は好きだけど、そんなにたくさんの本を読むかというとそうでもない。たべものラジオのために読むということもあって、それはそれで面白いのだけれど、時々もっと気楽な本を読みたいという気持ちにもなる。
本によっては、とっても体力を使うものがある。文章が難解だということもあれば、シンプルに知識不足という場合もある。翻訳書は独特のリズムがあって、書評に読みやすいとあっても「ホントに?これが?」と思っていた。
お茶についての近代史を勉強するよりも前に、恩師からいただいた書籍がある。茶業試験場や監督員、県内の動きの詳細が記された薄いものだ。けれども、初めて読んだときは書いてあることのほとんどが理解できなかったし、脳内で像を結ぶなんてことはなかった。はっきりいって全然おもしろくない。ところが、茶の歴史の大筋を学んでから改めて開いたときには「こんなに面白かったのか!」と衝撃を受けた。これには驚いた。
お茶の歴史シリーズは、正直言って構成やら話し方やら反省点がたくさんある。いつか、全部やり直したいくらいだ。ただ、ひとつだけ自分でもよく出来たと思えたのは、恩師から頂いた書籍の部分は、ちゃんと翻訳できただろうということ。
どんなジャンルでもそうなんだろうな。本物の専門家の間でかわされる言葉は、ぼくが聞いてもほとんどわからない。誤解を恐れずに言えば、世の中の大半の人にとっては「この人たち何を喋っているの?」という状態だろう。理解が及ばないということもあるだろうし、そもそも使っている単語の意味がわからないということもある。しかも、化学の話をしていたと思ったら急にアメリカの歴史の話が出てきたり、かと思えば経済の話をしていたはずなのに物理の話が出てきたり。ひとつの分野に特化した人が、他の分野について無知なわけじゃない。専門的に研究をしていないというだけで、他分野においてもそれなりに知見があるわけだ。
以前コラボしたサイエントークのレンさんは、サイエンスコミュニケーターがもっと必要だと言っていた。それは本当にそうだと思う。専門家の世界観と、一般社会の世界観。世界観でなければ言語と言い換えても良い。この間を行き来できる人が必要なのだ。小耳に挟んだ程度だけれど、欧州では立派に職業として成り立っているらしく、それなりに沢山の人がいるのだとか。
食文化や食産業について、ぼくはもっと多くのことを「翻訳」しなくちゃいけない。僕じゃなくてもいい。未来を作るためには、現在の状況をちゃんと知らなくちゃいけない。現在のことをちゃんと知るためには、過去から繋がる流れを知らなくちゃ意味がわからない。だから、歴史の話が多くなってしまう。逆に現在のことが少ないのは、シリーズが長くなってぼくが力尽きてしまうのもあるし、どこかで期待している部分もある。現代のことはニュースサイトでも知ることができるから、検索してみてほしいと。
深堀りしすぎって言われるんだけど、当事者としてはそんな感覚がないんだ。どちらかというと、あちこちに話が広がっていく感じ。例えば明治時代にある産業が大きな転換点を迎えたとする。その出来事を理解するためには、その時代にどんな習慣があって、何が流行だったのかを知らないと読み解けなかったりするんだ。だから、あっちこっちに話が飛んでいく。こういうスタイルが良いのかどうかわからないけれど、ちゃんと知りたいときには、誰かが補助輪として翻訳するのが良いだろうと思っている。
今日も読んでいただきありがとうございます。たべものラジオの武藤太郎って何者なんだろうな。といろいろ考えてみたのだけど、もしかしたらコミュニケーターみたいなのがしっくりくるのかもしれない。ちょっと時間軸が過去によっているけれど、食文化や食産業界隈のことを、噛み砕いて伝える人。