今年のお盆シーズンは、南海トラフ地震警戒に台風に豪雨と、何かと生活を取り巻く自然環境が忙しい。そんな中でも日々の生活があるから、会社にいかなくちゃならなくて大変だなぁ、などと他人事のように眺めている。ニュースを見ていると、台風が直撃するのがわかっているのに出勤せざるを得ない人がたくさんいるらしく、行き帰りの道中が大変そうだ。
東京なんかは、明らかに台風に対する防御力が低い。台風が通過するのが当たり前になっている地方から見ると、その脆弱性がよく分かる。ある程度まとまった雨量が有ればいとも簡単に交通が麻痺する。たぶん、もうみんなわかっている。わかっているなら営業しなければよいのにな。それほどまでに急ぎの案件がたくさんあるのだろうか。
台風が来るから。その一言で料理屋はキャンセルされる。商売としてはかなりツライものがあるのだけれど、帰宅困難者が発生するかもしれないリスクをとってまで行う会食など無いのだ。人と人が会って、会話して、同じ時を過ごして、そうして生まれる人の和。それは経済合理性とは別の豊かさである。けれども、人命や日常生活の方が優先されるのは当然だと思う。
自然災害を経由してみると、「ビジネス」と「ウェルビーイング」に対する一般認知がどのようなものかが見えてくるようだ。「ビジネス>日常生活>ウェルビーイング」の順である。そんなことはない、と言いたいところだけれど、実際の行動はそうなっている。そう決断しているんだ。そんなふうに見えてくる。
経済とは別の豊かさが大切だし、その指標が必要だ。というようなことが言われるようになったのはいつ頃だったかな。もう10年くらい経つんじゃないだろうか。それでも、それが実現できない理由は、価値判断が変わっていないからなのかもしれないな。
ビジネスは少しスピードが落ちるかもしれないけれど、今日は趣味のバスケットボールの試合があるので定時で帰ります。明日は筋肉痛になる可能性があるから半休もらいます。なんてことは言いづらそうだけど、なんか良いな。ただ、それができるのは最低限の日常生活が遅れる程度には経済的に余裕があるからなんだけど。自転車操業のような家計簿なら、そんなことは言っていられないだろうしね。
そういえば、一昔前の田舎のじいちゃんたちは、けっこう自由に趣味や地域の活動に参加していたな。僕の知る限りは農家さんが多かった印象だけど。いい洋服を着ているわけでもなければ、高級車に乗っているわけでもない。だけど、経済的に困っているわけでもない。生活物資を得るために一定のキャッシュは必要なんだけど、あまり食費がかからないらしい。
売り物の農作物の他に、自分たちが食べていくのに困らないくらいの野菜や米を作っている。家にはぬか床も有れば味噌もある。なんとなく思いつきで井戸を掘ってみたなんていう人も1人や2人じゃなかったな。当たり前だけど、賃貸住宅じゃないから家賃なんてものもないし。つまり、キャッシュだけに頼らない生活ってことだ。ほんの数十年前には、こういう生活をしている人が今よりももっと多かったんだ。
みんながそういう生活をするべきだ。なんてことは思わない。ぼくだって違うしね。だけど、社会全体で「日常生活」が支えられていけたら良いと思うんだ。国とかのレベルじゃなくて、もっと小さなコミュニティでね。で、「銭を稼ぐ人たち」「銭を稼がないけれど日常生活を支えてくれている人」が支え合う。みたいなこと出来ないもんかな。
今日も読んでいただきありがとうございます。夢物語かもしれないけれどね。初期農村の庄屋と農民の関係って、ちゃんと利益が循環していたらしい。庄屋っていうのはあくまでも役割だから、得た報酬を農民に還元する。いつの間にか権益になっちゃったけどね。