お盆の時期に墓参りに行くのは一体どういうわけだろう。と疑問を持った人もいるかもしれない。迎え火をして先祖を自宅に迎えたのだから、その間お墓には先祖の霊はいないはず。そう思って、何年か前にお坊さんに質問してみた。
お留守の間にお墓をキレイにお掃除しておき、お盆が終わってお墓に戻られるときに気持ちよく過ごせるように。それぞれにお考えはあるかと思いますが、当寺ではそのように考えております。
とのことだった。こういうことはネットで検索するよりも直接聞いたほうがはやい。
2年前、同級生が亡くなった。ミュージシャンだった彼を偲んで、地元のミュージシャン仲間が追悼ライブを開催している。今年もまた行きそこねたのだけれど、招待されるだけでも彼の歌声が脳内再生される。ぼくにとっては十分に彼を偲ぶ機会になっている。
先日、共通の友人がこんな事を言っていた。「追悼ライブに出演するなら、墓参りはすべきだ」と。ぼくにはとても違和感があったので「ホントにそうか?」と口にしたら、「偉そうに言うな。お前こそ墓参りに行ったのか!」と一喝された。なんだろう。彼がそう言いたくなる心情はわかるような気もする。だけど、「べき」というと、違和感がある。これはなんだろう。
そもそも、墓参りは「宗教儀礼」だ。と同時に、考古学では「墓」と「葬送儀礼」は、そこに文化が存在していたことの痕跡となる。10万年も前の人類が、装飾品を添えて丁寧に埋葬をしている。そこには死者を悼む気持ちが現れている。こうしたところから宗教へと繋がっていったのだとも言われている。
個人的な感覚としては、儒教的な先祖崇拝の気持ちもなくはないのだけれど、直接知っている人のお墓に関しては「自分の心がその人と向き合うための装置」のように思っている。雑念を捨てて、向き合うためだけに時間を使う。日常から切り出すために仏壇や墓をお参りする。そうじゃないと、故人が身近だった人ほどうまく向き合えないから。そんな気がしている。
故人を悼み、偲ぶ。そういう意味で、追悼ライブなどは墓参りよりもずっと強力な装置だ。彼の楽曲を改めて読み解き、じっくりと歌詞と向き合い、音の一つ一つから心情を読み取っていくのだ。楽曲に込められた作者の思いを自分自身にインストールして、それを自分なりの表現に置き換えていく。ミュージシャンが楽曲をカバーするっていうのは、我々がカラオケで歌うのとは違うのだ。これほどの行為は、故人を悼み偲ぶ気持ちを呼び起こすことになるはずだと思う。
これだけの思いをもって時間を費やして、ライブに参加しているメンバー。彼らに「墓参りに行っていないから参加するな」というのは、理屈に合わない。というのが違和感の正体なのかもしれない。だいたい、「追悼ライブ」はいろんなところで以前からある。世界的に有名なミュージシャンが亡くなると、そのミュージシャンのことを愛し尊敬しているミュージシャンが行う。いちいち墓参りなど行かないだろう。それが、音楽の世界における葬送儀礼だなのだろう。
なんとなく、こんなことを雑に話したのだけれど、そのときは通じなかったらしい。より激昂して、ぼくが墓参りに行っていないことを攻めるものだから、面倒になって「まだ向き合うのがツライ」ってことにしておいた。それで納得したらしい。
今日も読んでいただきありがとうございます。ヒトの死に対する向き合い方は、実に様々だ。国や時代、宗教など様々な要素が絡んで、全然違う。そういうことを知らないまま、自分の経験の範囲だけで「べき」を語るのってちょっと怖い気もするんだ。