仏教発祥の地といえばインドだ。元々インドにはバラモン教というものがあって、そのなかからウパニシャッド哲学というものが現れた。紀元前1000年〜500年くらいだったかな。バラモン教がとても形式的になってしまっていて、それってどうなの?と考える人が出てきたのだ。で、ちゃんと内面的な思索を重視して真理の探求をしようよという動きになっていく。これがウパニシャッド哲学
有名なのは梵我一如。宇宙の根源=梵、人間の本質=我。両者は究極体に同一であることを認識すると、それは真理を把握したことになる。自分の中に宇宙みたいなものがあって、それは構成要素こそ違うけれどカタチ(関係性とか構造)は宇宙と同じ。だから、これを理解できれば世界そのものを理解できるっていうはなし。悟りだ。ゴータマシッダールタが悟りを開いたかどうかは、悟った人にしか理解できない。出来ないんだけど、「悟ったと信じる」というのが仏教。
既存の教えが、本質から離れて形式化してしまう。で、社会の上層だけのものになっていく。そうすると、それって本質じゃないよねってことになって、新たなものが生まれる。
実は、インドから仏教が消えていった経緯も似たようなもの。修行した僧侶たちが、親権に仏教哲学を追い求めていく。それは、学問のための学問みたいになっていってしまって、民衆とは大きく距離が離れてしまったんだ。出家しなくちゃいけないし、学問を追求しなくちゃいけないい、お金も時間もかかる。仏教は一部の人達だけのものになった。一般社会との乖離が激しくなっていくと、ついには心も離れていってしまう。で、また別の宗教が庶民の間に広まっていく。
もともと普及していたものが、あるとき高尚なものになっていって、一部の人達だけのものになっていく。距離がどんどん離れていく。そうすると、新たな勢力が現れて書き換えられる。この構造って、他にもありそうな気がするんだ。
庶民から取り上げてはならない。というのが、教訓になるのだろうか。
大正時代にかけて、握り寿司は高級化した。いろんな美食家が現れては、握りは90度傾けて食べるべし、箸ではなく手づかみで食べるべしだのと言い、食べる順番まで指南した。そうでなければ握り寿司を語る資格が無いと言わんばかりに。だけど、握り寿司はずっと庶民のものだった。高級になったけれど、それでもちょっと背伸びをすれば庶民でも食べられるものだし、回転寿司などの登場によって、手軽に食べられるスタイルも定着した。何が違うんだろうな。
近世以前の茶懐石も本膳料理も、いまとなっては風前の灯。そもそも、庶民にとっては無縁の食事スタイルだったから浸透していないってこともあるのだろうけどね。ぼくらが一般的に会席料理と言っているものは、江戸スタイルじゃなくて近代のものなんだけど、これももともと庶民の食事じゃなかったんだよね。一般に広がったのっていつだろう。やっぱり高度経済成長期からバブルにかけてだろうか。美味しんぼを見ていると、日常ではないけれどそれなりに近くにあるものっていう雰囲気がある。
ひとつは、旅行かな。団体旅行。今でも古い旅館を訪れると、「ステージ付きの大広間」を見ることができる。食事をするのに、なぜステージが必要なのかと首を傾げたくなるところだけれど、需要があったんだ。社員旅行だったら、偉い人がステージで喋ったり、宴会芸を披露したりしていたんだろうか。映画「釣りバカ日誌」でもちらっと見たことがある。
こういうところで提供されていたのが、旅館スタイルの会席料理。いまでも、ほとんどの旅館では「ずらりと料理が並べられている」というスタイルが一般的だよね。
高尚になりすぎないギリギリのところ。庶民感覚の延長上にあるいい按配のところ。肩ひじを張らずに、雑に楽しめる。そういうのが必要なんだろうな。
その国のスポーツの強度はアマチュアの数に比例するって、どこかで読んだな。きっと、ルールもいい加減だし、プロのすごい人の名前なんか知らないし、ただただ楽しいからやっているっていう人もいるんだろう。それなりに頑張ってやっているひともいれば、真剣にプロを目指している人もいる。
最もゆるい参加者のグループがいなくなってしまうと、いつのまにか業界全体が小さくなっていくのかもしれない。素人が気楽に楽しめる。知識や技術の多寡でヒエラルキーを作らないし、知らない人のことを駄目だって言わない。そういう裾野が大切なんだろうな。下手でもいいから料理を楽しむ人がいて、それもまた良いよねっていう世界。料理はこうあるべしなんてことを言うのは、一部で良いのだよ。
今日も読んでいただきありがとうございます。握り寿司を支えてきたのは回転寿司だし、カトリックを支えてきたのは修道院だし、日本仏教を支えてきたのは浄土系。という気がしてきた。文化の担い手って、すっごく幅が広くて、その広さが大切なんだろうな。