近頃は、SNSはたまに覗くだけにしている。勉強になることもあれば、なんとも不毛な論争にうんざりすることもあるからだ。だから、「たまに、ジャンクフードを食べたくなるんだよね」というくらいの感覚である。今の自分には、それくらいがちょうどいい。
ただ、たまに妙に考えたくなる話題がある。
さて、最近目にしたのは「うま味調味料はバカ舌になる」という話。正直なところ、それぞれの価値観に合わせて好きにすれば良いと思う。論争に参加する気は無い。だけど、考える題材としては面白そうだ。
味覚は狂うのか
いわゆる「バカ舌」というやつである。だけど、定義がとても曖昧なまま使っているような気がするのだ。ちょっと、私なりに考察してみることにする。
味覚は大きく分けると「どのくらい感じられるか」と「どのくらいの濃さが好きか」に分かれる。前者は、言ってみればセンサーの感度のことで、後者は嗜好。全く別のものだ。
ちなみに、味を感じられる最も低い濃度を閾値という。平たく言えば、どのくらい薄味を感じられるかの指標である。
好みの濃さは、感じられる範囲の濃度なら理論的にはすべて当てはまる。実際、ある程度の傾向はあるにせよ、十人十色だ。センサーがとても敏感で繊細な人で、濃い味が好きな人もいる。逆に薄味が感じにくい人で、感じられるギリギリの薄さが良いという人もいる。
ただ、閾値が高い人のほうが濃い味を好む傾向にあるのは、たしかにそうだろう。閾値は変動するからだ。人間の味覚というのは、とてもルーズに出来ている。だから、普段からよく食べる濃度をおいしいと感じるようになるのだ。簡単に言えば、濃いものばかり食べていれば閾値は高くなっていくし、薄味のものばかり食べていれば閾値は低くなっていく。
離乳食は、大人向けの料理に比べてとても薄味に作られる。特に塩味は薄く、たいていの大人が食べると「味がない」と感じるかもしれない。2歳未満の子どもは、腎臓の機能が未発達だからである。それに、普段から素材の味そのものである母乳やミルクを飲んでいるのだ。だから、濃い味付けはびっくりしてしまう。つまり閾値がめちゃくちゃ低い。育児期間に、両親も閾値が低くなることがある。普段から離乳食に合わせて味つけをしていった結果である。当然だが、逆もあるわけだ。
つまり、よく食べる食事の濃度に合わせて閾値が調整される、ということだ。そして、人間は慣れたものを好む傾向にあり、大雑把に言えば普段食べている濃度をおいしいと感じることが多そうだ。状況に合わせて、いつでも変わる可能性がある。それだけのことだ。
食文化と味の濃さ
ややこしいのは、味覚は単一の味で構成されるわけではないところだ。いわゆる五味や香り、脂、舌触りや歯ごたえなどのテクスチャなども関わっている。それに、音や見た目、イメージまで影響するだろう。
余談だが、五味とは旨味、酸味、甘味、塩味、苦みのことを指すのが一般的になってきた。が、伝統的には旨味は五味にカウントされず、辛味が入る。確かに辛味は痛覚なので味ではないのだけれど、食文化としては「辛酸甘苦鹹(しんさんかんくかん)」と言って、漢方に由来するものを五味という。料理人的にはこっちが五味。旨味は、すべての料理のベースだからわざわざカウントしないという感覚かな。
さて、話を戻そう。
味の閾値は、それぞれの味で異なる。酸っぱいものはかなり敏感だし、それに比べれば塩味は鈍感だ。香りがあると、塩味が薄くてもおいしいと感じやすいし、とろみがあるものも同様の傾向にある。これは、減塩療法が必要な場合にも応用されることだ。
さらにめんどくさいのは、生活習慣にも左右される。肉体労働に従事している人は、どうしても塩味が濃くなりやすい。汗をいっぱいかくと、汗と一緒に塩分が出ていってしまう。だから、不足した塩分を補給したくなる。好みというよりも、栄養素として体が欲するわけだ。最近、熱中症対策として塩飴などが推奨されているから知っている人も多いだろう。私たち料理人も、夏場の厨房では梅干しを口にしたりして体内の塩分濃度を調整している。でないと、料理の味見をした時に「いつもの味」にならないからだ。
そして、こうした傾向は個人だけでなく地域や文化にも現れる。ものすごく大雑把な傾向だが、東京が比較的味が濃い傾向にあるのは、歴史的に労働者が多い町だからだと言われている。江戸時代から大工などの職人がとても多く、それが文化的に定着したのではないかという考察だ。現代ではホワイトカラーが大半を占めているけれど、他の地方に比べれば通勤時間が長くて行動量が多い。
国内に留まらずグローバルに目を向けてみよう。例えば、南アジアは、その暑さと湿度から食欲が減退しやすい。生産地が近いこともあって、食欲を促進する香辛料を多用する食文化が育った。しかも、スパイスは日本のそれと比べて強烈だ。他にも乳製品を多用する欧州、肉の消費量が多いアメリカなど、それぞれの地域にはそれぞれの味覚的傾向がある。だからといって、どの食文化圏が優れているとかバカ舌だということにはならないだろう。めちゃくちゃ辛い四川料理を食べる人たちだからって、それだけでバカ舌だということにはならないはずだ。
食の好みと批判
集団だと文化と呼ばれて尊重され、個人だと尊重されないのか。実は、これは現代に始まった論争ではない。今は、文化を尊重しようという考え方が広まったから、まだマシな方だ。民族意識というか、対抗意識のある地域同士は食べ物とか味についてあれこれ言うのだ。
ローマの記録では「ゲルマン人たちは泡の出る変な酒を飲んでいる。ワインがないからしょうがないか」みたいなことを言っている。ヨーロッパがまだアジアについて無知だった頃、「東方に、魚を生で食べる野蛮人がいる」とバカにしていた。こんな話を挙げだしたらキリがない。
かつてオリエント地方で、ビールやワインが産業として発達した。私たちが古代と呼ぶ、バビロニアとかアッシリア帝国とかアケメネス朝とか言っていた時代のこと。彼らは、やっと形が出来始めたばかりのローマ地方に、ワインを輸出した。赤ワインだ。当時、白ワインのほうが上等とされていて、蛮族には赤ワインで充分だと。そんな話が伝わっている。
「かっらぁ。なんや江戸のモンは、ホンマの味を知らんのかいな。」
「べらぼうめ。澄まし汁なんて、すました顔しやがって。ちっとも味がしねぇじゃねえか」
こうした”味覚マウント”は、時代も地域も問わず繰り返されてきた。
思想が元で戦争するよりはいくらかは平和である。かつては、食文化に対する批判が選民思想と繋がっていたこともある。さすがに現代ではそのようなことにはならないと思う。だから、そういうことは互いに笑いながら言い合っているくらいにするのが良いと思う。
歴史上の「味覚に関する野の知り合い」を見て、どう感じるだろうか。当時の人は本気だったかもしれないが、現代の感覚で見れば、私には滑稽に見える。
ダシ文化の歴史
SNSで「出汁文化が一般的だったら、味の素でがヒットするはずない」「そんなわけない。昔からあった。」という論争もみかけた。食文化史を学ぶ者として、これには辟易した。
端的に結論を言えば、「あった」が正しい。これは、歴史的に資料も明確だ。ダシを使った料理とは、「食材の抽出液を飲む」ことと「食材の味を他の食材に含ませる」ことである。抽出液として古い時代に見られるのは「堅魚煎汁(かつおのいろり)」だ。カツオを海水で茹でて、その茹で汁を煮詰めたもの。塩分濃度を高めれば保存できるので、それが税として納められたという木簡がある。たぶん、汁物にしていたのだろう。
堅魚煎汁は、特別珍重されていたということだが、他のも類例があったと見るのが自然だろう。なにせ、日本を含む東アジアは土器文化が早くから存在している地域だ。土壌が粘土質だから、ギュッと握れば泥団子が出来る。その延長上に土器文化が発達した。乾燥地域で土器の発達が遅れたのは土壌が違うからだと言われている。土器文化があって、水が豊富な日本列島は自然と「茹でる」調理方法が発達しやすかった。鉄器の発達が遅れた日本では「揚げる」「炒める」といった調理方法が少ない傾向にあったわけだ。結果として、茹で汁=抽出液が利用されやすい環境にあったと考えられている。この背景を考えれば、ダシの活用は早い時期からあったと考えられるし、一般的に広まる下地があったと考えられる。
転機となったのは鎌倉時代。精進料理が伝えられ、淡白な味の素材をより美味しくするために「味付けされた料理」が普及していく。その始まりの時代だ。ゆっくりだが、じわじわと広がっていく。すり鉢が登場すると、味噌をペーストにすることが出来るようになり、料理の味付けがぐっと豊かになっていく。そういう意味で、室町時代は日本料理のベースが整った時代と言われる。
その後、江戸時代を通じてあらゆる食文化が花開いていく。戦乱がなく、経済的に発展した時代だからこそ、調理技術や料理文化が深く広く発達したのだろう。鰹節が流通するようになり、江戸の立ち食いそばでも鰹ダシのそばつゆが使われるようになっていった。もはや、ダシは庶民の味と言って良いだろう。
ダシという概念
だからといって、すべての地域のすべての人達にとって鰹ダシが当たり前だったかと言うと、そうでもない。そもそも、「ダシ=昆布と鰹の合わせダシ」という観念がおかしい。比較的、イワシ、シイタケ、カンピョウ、トビウオなどが知られているが、それらに限らないのがダシ文化。前述したように「食材の抽出液」を活用することが本質なのだから、素材は何だって構わないわけだ。
煮魚のレシピに「ダシ」と記されていることがあるが、私たちは使わない。当たり前である。魚や大根やゴボウなどの食材から、それぞれに味が染み出してくるのだ。わざわざ、合わせダシを入れる意味がない。むしろ、邪魔なくらいである。
つまり、ダシ文化と合わせダシは同一視すべきものではないということである。味の素が普及したのは、日本には「ダシ文化」が定着していたからだと思う。それは、かなり広域に浸透していて、様々な形態のダシが存在していた「知恵と技術」なのだ。その「ダシ文化」に、新たな選択肢が加わったという認識である。
一方、味の素はグローバル展開されていて、様々な国で使われている。おそらくだが、多くの国で味の素は「料理がおいしくなる粉」であって、「ダシ」ではないだろう。ここに決定的な違いがある。残念ながら、各国のデータを拾って調査したわけではないので、憶測でしかないのだが。まぁ、そんなところではないかと、思うわけだ。
いろんなダシと使い方
いつどこから始まったのかは分からないけれど、「ダシといえば合わせダシ」という観念が流通している。どこか、「合わせダシ至上主義」のようなところがあるように感じる。よく、加工食品のパッケージに「料亭の味」という文字を見かけるが、料亭を営んでいる側から見ると違和感がある。たぶん、料亭=合わせダシというイメージが有るのだろう。確かに多用するが、それは「商品として安定させるため」という側面と、長らく「合わせダシが最上位」とされてきた歴史的背景があるからだ。
確かに料亭では合わせダシを多用する。しかし、それしか使わないということはない。精進出汁もあれば、鯛出汁もある。きのこ類を下茹したら、もったいないので他の料理に使う。鶏肉だって、野菜だってダシになりうる。基本的に全ての茹で汁はダシになるポテンシャルがあると考えて良い。
いろんなダシを上手に使えば、料理はとても豊かで楽しくなる。わかりやすい代表例が鍋料理や味噌汁だ。いろんな具材から味が染み出して、とても豊かな味になる。たまに、組み合わせを間違えると味がぶつかってしまうこともあるけど、それもまた一興というものだろう。家庭料理とはそういうものだ。
味の素の立ち位置
ダシとは、複合してもしなくても使い方ひとつでいろんな料理に使える。一方で、純粋な旨味を抽出するのはとても難しい。純粋な味とはどういうことだろうか。
例えば、煮物に甘味をつけたいとする。甘味調味料と言えば、砂糖とみりんである。他にも甘味のある野菜や果物を入れることもある。塩味ならば、塩のほかに醤油や味噌が一般的だ。これらの中で、もっとも純粋な味に近いのはどれかと言うと、塩と砂糖である。
塩味をつけるのに、塩を使うのは邪道で醤油こそが正しい、なんてことはない。それぞれに使い所が違うだけだ。魚の塩焼きがおいしいのは誰もが知るところだろう。砂糖だって同じである。みりんの風味が必要ないときには、砂糖のほうが都合がいい。
つまるところ、どちらが正しいという話ではない。使い方の問題だ。
20世紀初頭、昆布の旨味成分であるグルタミン酸ナトリウムの抽出に成功した。これこそが、池田菊苗博士による「旨味」の発見である。グルタミン酸は既に発見されていたが、それが旨味の正体であることをつきとめたのである。これが、新しい純粋な調味料「味の素」につながっている。
ここまでくれば、私の言い分が伝わったと思う。
旨味調味料は、塩や砂糖のような調味料と同じ様に扱えば良い。ただそれだけの話しだ。塩や砂糖を使うことに正義も何もないように、味の素を使わないことが正義なんて話はない。論理的に成立しない。というのが私の考え方だ。
塩を入れすぎればしょっぱくなるし、しょっぱい料理を食べ続ければ閾値が上がっていく。塩味に対して鈍くなれば、塩分過多によって高血圧を引き起こす恐れがある。砂糖だって、味の素だって同じことである。
そして、私たちは塩や砂糖だけで味付けをすることはない。他の調味料も使うし、素材の味も味わう。料理とは、そもそも味の複合そのものなのだ。複合物である以上は、バランスを取るものだろう。
そのうえで。冒頭の話に戻る。
あとは、濃さと好みの問題である。
だから、
この論争が、どこか空回りしているように見えてしまうのだ。
この論争を塩や砂糖のことだと思って眺めると、それこそ古代の”味覚マウント”のような滑稽さすら覚えてしまう。
そういえば、砂糖を使うかどうかの論争もあったような気がするけど、今回は触れないでおこう。
今日も読んでいただきありがとうございます。
味の素を使うかどうかと問われれば、答えは「使う」かな。ただ、出番は少ないけど。塩や砂糖を使うのと同じで、必要のないところでは使わないしね。そもそも、ダシ素材がいっぱいあるから、出番が少なくなっちゃう。そういえば、我ながらいい感じに使えたということもあってさ。どうしても素材の味を全面に出したいと思ったことがあって、その時はレタスを使ったお浸しだったんだけどね。あれこれ試した結果、味の素がそのレタスの味を引き出してくれたんだ。ちょっと目からウロコな体験だった。