食のパーソナライゼーション。これについて、随分前にも書いたことがあるのだけれど、今回思いついたことがあるので少し書き出してみようと思う。
インスピレーションの源は、あいも変わらずシグマクシスとWIREDが共催る「フードイノベーションの未来像」。人類の食とウェルビーイングの繋がりを多角的な視点から深掘りするというのが主旨であるのだけれど、その中でも2022年度は「食とパーソナライゼーション」について、思考を広げていくという取り組みだ。様々なジャンルの専門家を読んで繰り広げられるトークセッションは圧巻。有料だけれど、その価値は間違いなくあるので興味があればぜひ見て欲しいと思う。
パーソナライゼーションとは、個別最適化という言葉に置き換えられる。カスタマイゼーションは、消費者自身が選択して最適化する。パーソナライゼーションは提供側が商品やサービスを個人に合わせて最適化して体験価値を向上させる。というのが、いわゆるマーケティングの基本。
では、食のパーソナライゼーションとなると、どういったことに繋がるのか。例えば、各人の遺伝子情報を読み取って、それぞれの肉体に最適な栄養バランスの食事を提供する、ということもある。これは、DNA情報の読み取り技術が進歩したことで、比較的安価に実現できるようになった。他には、日常の食事の傾向をスマート家電になった冷蔵庫や電子レンジ、ネットの注文情報などから読み取る。これによって、好みの傾向を機械学習的に集積して最適な味付けを提案するシステムというのも開発が進んでいる。というか、一部では既に社会実装が始まっている。
上記はテクノロジーの話が中心だけれど、これをもう少し広く解釈してみよう。同じ食卓を囲んでいるのだけれど、それぞれが別のものを食べることが当たり前の状況が生まれる。ということも考えられる。それはそうだろう。決して悪いことではない。定食屋だったり、フードコートで食事をするときは、既にそのような食事が当たり前になっているだろう。グローバル社会では、文化も習慣も宗教も異なる人が一緒に食事をする場合には、とても都合が良い。
一方で懸念点もある。共食による一体感が失われやしないか、である。人類は、世界中のほぼ全ての社会で「共食」を行ってきた。ある種の儀式のようなものかもしれない。古代メソポタミアでは、一つの瓶に入ったビールに二人がストローをさしてそれを飲んでいた。既に、簡単な濾過技術は確立されていて、ビアバーではカップで飲んでいたにも関わらず。中世ヨーロッパの王侯貴族は、肉塊切り分けるのが主人の誇りある役目だったし、一つのカップでワインを回し飲みしていた。そのせいでペストが拡大したのだが。近世に入るまでは、大皿料理が基本である。
大皿料理を皆で取り分けて食べる。このスタイルは、多くの社会では多数派であるように見える。ヨーロッパであれ、ペルシア地域であれ、アフリカ、インド、コーカサス、中国、と歴史上の多くの地域ではそれが当たり前だったようだ。個食とは言わないが、銘々の器に配膳された食事が主流となるのは、ごく少数派なのかもしれない。時代によって、銘々皿になる場合も多いが、かなり早い段階からこれを取り入れた社会がある。それが日本だ。
日本の食文化は、現代においてはとりわけ共食文化に敏感だ。薄れているとは言え、それでもそこに価値を感じていて、その喪失に警鐘を鳴らす傾向がある。欧米のそれよりも強いと感じているのは、ぼくが日本人だからだろうか。そんな日本ではあるのだけれど、実は銘々膳の文化はかなり古い。少なくとも平安時代には常識になっていたくらいだ。だから、当時中国大陸から伝来した食文化が大皿料理を基調としたものであっても、大饗料理のように銘々に盛り付けられたものになったのだ。
そんな文化の中で、どうやって共食文化を守り続けたのだろうか。もしかしたら、そんなところにヒントが有るのかもしれない、と思ったのだ。
何かしら共通の食があって、それ以外はそれぞれに少し違ったものを食べる。一般的に本膳料理では全員が同じものを食べる。それは日常の家庭の食事であっても同様だろう。
例えば下級武士の食卓において、子供の食べるおかずと家長のそれが必ず同じだったとは限らない。家長は一品多いというのは、昭和時代まで続いた習慣である。それに、未発達の子供には食べられない料理というものもあっただろう。だから、予めお膳に並べられたおかずは少しだけ違ったものになっていた可能性もあるだろう。それでも、ご飯だけは共通の食事である。白米なのか糅飯なのかは問わない。麦飯かもしれないし、雑穀かもしれない。とにかく、同じ釜の飯を食うのである。ここに、ユニバーサルな料理が存在している。
寄り合いでは、膳に様々な料理が並べられた。これもやはり同じものを食べるのが基本。しかし、人によっては食べられないものがあったりして、少々の気遣いとともに変化があったかもしれない。「いや、あっしはどうも塩っ辛いものが苦手でしてね。」「そうかい、じゃあそいつはあたしがいただくよ。あんたは、こっちのが良いんじゃないのかい」といったやり取りがあったかもしれない。けれども、みな一様に酒を飲む。ひとつの徳利からつがれた酒を飲む。やはりここにユニバーサルな食体験が介在している。
こうして、想像を広げていくと、面白いところに思考がたどり着いた。もしかしたら、世界中の「主食」と呼ばれているものは、共食のためのユニバーサルデザインなのではないだろうか。だから、味がタンパクで、比較的多くの人に受け入れられる食材なのではないだろうか。これに関しては鶏がさきか卵がさきかという話になるが、結果としてはそうなっているようにみえる。もっと話を進めると、世界中の酒文化はその地域の主食を原料にしたものが多いのも、関係があるかもしれないと思えてくる。考えすぎかもしれないが。
パーソナライゼーションとは逆の視点になるのだけれど、共食を考えることは結果として同じ点を眺めることになる。共食を、全て同じと捉えるのではなくて、「全員が少しずつでも同じものを食べる」という程度にする。全員が違うラーメンを注文するけれども、ラーメンというくくりの中にいる、というのでも良いのかもしれない。
つまり、これを守りさえすれば、パーソナライゼーションはどこまでも個別最適化しても良いように見えるのだ。
きょうの話は、あくまでも文化的な側面の話でしか無い。パーソナライゼーションではなく、カスタマイゼーションのほうを重視したいという消費者もいるだろう。この両面を自由に行き来できること。その中に、共通体験というエッセンスが選択肢として存在していると考えるのが良いのかもしれない。
今日も読んでくれてありがとうございます。冒頭に紹介した「フードイノベーションの未来像」には、後日、参加者が意見交換できる場が用意されている。実は、今日の内容はそこで話したかったことなのだ。こんな気付きをしたよって。残念ながら、仕事中だったために耳だけ参加することになってしまって、ついに一言も発言するチャンスがなかった。ということで、ここに書き出した次第だ。