「弘法筆を選ばず」が生み出すイノベーション 2024年2月17日

弘法は筆を選ばず。というが、そうとばかりも言えないんじゃないかと思っていた。確かに、達人ならばどんな道具でも人並み以上に扱える。随分と前のことだけれど、超有名ドラマーが友人のライブに飛び入り参加したことがあった。太鼓の位置や椅子の高さなどを全く変えることなくドラムを叩き始めた彼は、常人離れしたパフォーマンスを見せた。

一方で、彼らは道具を選定することにも長けている。弘法大師がどんな筆を選んでいたのか知らないのだけれど、そのドラマーの道具に対するこだわりは有名だ。各種の太鼓はもちろん、その皮や支える支柱、シンバルも、椅子もスティックも、研究し尽くされている。自らのパフォーマンスを最大限に高めるためなのだから当然である。

達人ではないけれど、ぼくら料理人が使う包丁は家庭のそれとは違うことが多い。特に日本料理では数種類の包丁を使い分けるし、それぞれの包丁は高性能である。一般家庭で使われる包丁は数千円程度のものが多いらしいのだけれど、数万円の包丁を数本用意することは料理人にとって珍しいことではない。自らの技の習熟と同時に、優れた道具を扱えるようになることも技を極めようとするひとたちの工夫だ。

ここまでが、ぼくにとっての「弘法筆を選ばず」の今までの解釈。最近、この解釈を少しばかり変更せざるを得なくなったんだ。

キース・ジャレットというジャズピアニストがいる。詳しくはないのだけれど、随分と前にマイルス・デイヴィスのアルバムを聴いていて、その中に彼の名前があったし、ジャズピアノの巨匠である。その程度の知識だ。

ひょんなことから彼の代表作と言えるアルバムの存在を知った。ザ・ケルン・コンサート。音楽そのものも素晴らしいのだけれど、それが生まれた背景も興味深い。

そのコンサートでは、キース・ジャレットが指定したグランドピアノが用意されるはずだった。が、なにかの手違いで、指定したものよりもずっと小ぶりのブランドピアノが届けられてしまったのだ。しかも、調律がおかしい。なんとか調律したものの、高音域は耳障りだし、低音域は響きが悪い。更には、音を長く伸ばすときに使われるペダルもうまく動かないという状況。

ピアノばかりでなく、彼の体調も悪かったようだ。長距離移動、不眠、腰痛、そして深夜23時半という開演時間。これほど状況が悪いコンサートがありうるのかと思うほどだけれど、このときの演奏が最も人気の高いアルバムになるのだから面白い。

高音が鳴らないならば、なるべく使わない。低音の響きを補うためにアタックを強くしたり、音を重ねたりと工夫した。音を伸ばさなくても良いように曲をアレンジした。これらの工夫を、即興演奏で行ったのだそうだ。これが、革新的な音楽を生み出したのだという。

達人と呼ばれる領域に達した人だから出来たことなのかもしれない。ただ、彼の本来の自由を奪うような制限があったという状況が、彼のイノベーションを産んだことも間違いないだろう。つまり、制限は工夫を引き出すためのトリガーになるということである。

制限は様々な工夫を生み出すことにもなる。本来ならば映像や図解を添えて説明したほうが良い内容を、あえて音声だけで伝える。達人ではないので、なかなかうまく行かないのだけれど、それなりに工夫しなくちゃいけないという意識は芽生える。映像がないからこそ聞き手が想像しなくちゃいけない。想像するという能動的な行為によって、理解がより深まるかもしれない。そんなことすら考えている。

今日も読んでくれてありがとうございます。弘法大師がデタラメなほどに安っぽい筆を持たされたらどんな工夫をしたんだろうな。ちょっと怪我をしているとか、紙が用意できないとか、いろんな状況があったかもしれない。冒険のような工夫って、何が生まれるかわからないけど、けっこう面白いことが起きると思うんだよね。

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