もう少しざっくりで良いんじゃない?という提案。2022年10月10日

料理レシピについて、こんな話を聞くことがある。「少々とか適宜とかいう表記がわかりにくい」「中火ってどのくらい?そもそも機材によって火力とか違うんじゃないの?」

確かにね。わかる、わかるよ。もうちょっとわかりやすくなると良いと思うよね。

一方で、これ以上どうやったら良いのかっていうのも難しい。電子レンジで何ワットで何分とか書いてあっても、機種だとか器だとか、そういったものの影響を受けるのだ。そもそも、醤油10ccや味噌10gと言っても、同じ味噌じゃないでしょう。同じものに合わせれば良いのかもしれないけれど、ほとんどの人は気にしない。だって、醤油は醤油でしょって思っているからね。醤油も味噌も、ものによって味わいがぜんぜん違うんだけどね。それに、野菜だって個体差があるんだから。そこまで厳密にしてしまうとキリがないのだ。

有効桁数という考え方がある。主に工業製品などで使われるのかな。どの程度まで誤差を認めるかって話だよね。小数点何桁まで精度を求めますかって。有効桁数を考えると、実は料理に関してはかなり粗いんだと思うよ。

例えば、どこかへ出かけるとして10分遅れたとする。30分で移動する予定のときに10分遅れたら、けっこう遅れてしまったなという感覚があるかも。けど、5時間かかるような場所へ行くときに10分程度の遅れは許容範囲内だろう。どういう表現が良いのかな。全体量に対する割合で捉えるような見方があるだろう。

あと、計量するメモリによっても感覚は変わるよね。1カップは200ccだ。なんとなく200ccと言われると、198ccくらいだったら許容範囲かなと感じる。誤差は1%。だけど、1カップだとざっくりでいけるかもね。うーん、日本の計量カップは目盛りがついているからなあ。特に1カップの分量がわからない人は、200ccで測ってるのかも。そうそう、枡のイメージかな。枡は1合が基本。でね。お米を測るにしても、液体を測るにしても、そんなに細かく意識していないんだよね。

1カップとか1合とか、そんな単位はいらないという人もいる。全部グラムかccで表記すればいいじゃんってね。だけど、あえて有効桁数を下げて表現するために使用しているのかもしれない。

厳密な軽量にはあまり意味がない。誤差があるのは当たり前なの。もし誤差を小さくしたいのであれば、「この料理は○人前以上で作ってください」と表記した方がいい。煮物でもカレーでも、一度に作る量が大きくなれば、誤差の割合は小さくなるからね。そんなものなのだ。

だいたい、ぼくら料理人は計量する時にはグラムでもなく容量でもないことが多い。いや、この表現はなんか違うな。全体の割合なんだよね。出汁9に対して、みりんと醤油が1。そんな感じの割合なんだよね。

もう少し発想を変えてみよう。誤差があることは楽しいじゃないか。そういう視点だ。人によって使っている醤油も違うだろうし、塩も違う。食材だって地域差や個人差があるでしょう。その違いが面白いと思っちゃえば良い。味噌煮にしたら、レシピ本と違う色になったとしても、それは使っている味噌が違うからじゃん。もしかしたら、レシピよりも美味しいものが出来ているかもしれない。それは、レシピを書いた人が作った料理を食べて比べて見なくちゃわからない。そんなものなんだ。

人によって解釈が違って、誤読する。使っている機材も環境も食材も全部が違う。そこが面白からこそ、プロのピアニストは存在できるんじゃないかな。シューベルトもリストもずいぶん昔に亡くなっている。音源もない。残されているのは楽譜だけだ。なんならピアノじゃなくてチェンバロで演奏していたこともあったらしい。演奏する場所によっても音響が違ったり、観客のテンションが違ったりする。その時その時で、柔軟に対応しつつ、偶然に生まれた音が良い。そんな感じじゃないかな。

料理も同じことで、創作の何割かは偶然に左右されるはずだ。その偶然を楽しむのが良いのじゃないかと思う。詳しくは知らないのだけれど、懐石というスタイルを起こした千利休が提唱した「一期一会」の概念と通じる部分なのかもしれない。

ぼくら料理人は、ピアニストだ。状況に合わせて柔軟に対応することが出来る。ただ、ここの部分が言語化するのが難しいんだよ。言葉も数字も、情報を伝えるための道具だけれど、これらの道具では伝わらないのだ。感覚とか、音とか視覚で補助してなんとか伝わるか可能性が上がるかな。人類はまだ、この部分の情報伝達ツールを持っていないのかもね。で、このゾーンの情報のことを感覚などと表現しているのかもしれない。

今日も読んでくれてありがとうございます。ぼくが料理教室をやるとしたら、この感覚の部分だけに特化した内容にするね。だって、他の情報は全部言語化できちゃうじゃない。それを読みながらやればいいの。感覚で柔軟に対応すること。非言語の部分が、実は一番求められていることなんじゃないだろうか。

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