「和食は水の料理」だと聞いたことがある人も多いだろう。「中華料理は火の料理」と比べれば、なんとなくそんな気もしてくる。だけど、具体的にはどういうことだろうか。
直接的な水の影響
水の料理と言われて、一番最初に思い浮かべるのは「ダシ」。昆布と鰹節の合わせだしが有名だけど、他にもいろんなダシがあって、和食では欠かせない存在だ。ダシの味は水の良し悪しに大きく左右される。
まず第一に、ダシは水を飲むことと直結している。一般的なダシの場合、ダシ成分は全体の数パーセント程度しかない。例えば、味噌汁を飲んでいる時、そのほとんどは水を飲んでいることになる。この時、水に求められる重要なポイントは「無い」ことだ。汚れが無い。匂いが無い。クセが無い。これらをあわせて「きれいな水」ということになる。昆布や鰹節などから「有る」が溶け込んでくるのだから、受け皿となる水はきれいなものでなければならないのだ。
「無い」と言っても、「不純物が全く無い水」というものは生活圏に存在しない。大抵は何かしらのミネラルが溶け込んでいるものだ。余談だけど、限りなく純水に近い水を飲んだことがある。口の中では「そこにただ冷たい液体がある」ことだけが感じられた。普段は気が付かないが、水にもそれなりに味があることを相対的に感じた経験である。
この、水に含まれるミネラルの量が多いと硬水、少ないと軟水と呼ばれる。軟水のほうが昆布や椎茸などの旨味成分であるグルタミン酸が溶け込みやすい。ミネラルが多いとグルタミン酸と結合して固形化してしまうのだ。いわゆるアクになる。鰹節に含まれるイノシン酸も同様。ただ、肉を煮込む料理などのように、雑味となるタンパク質や脂質を取り除きたい場合には向いている。ミネラルのお陰でアクとして除去できるからだ。
やはり、ミネラルも少ないほうが和食のダシには向いている。国内では水の硬度が高いと言われる関東平野も、軟水の中では高いというだけのこと。日本のほとんどの地域では軟水なのだ。ここでもやはり「無い」ことがポイントになる。
つまり、「和食は水の料理」という言葉には「清浄さ」に対する信仰のような感覚も含まれているのではないだろうか。
日本と中華の食文化を比べてみる
中華大陸はとても広い。それぞれの地域によって環境も違うし、住まう民族も違う。しかも、長い歴史の中でたくさんの異国文化を取り込んできた経緯もある。だから、中華料理の特徴を完全に表現することは難しいわけだけれど、それでも大まかな特徴はある。
使用する油の量が多いこと。生食は少なく、加熱料理が主体であること。新鮮食材もあるが、乾燥食品が発達していて重視されること。複雑な調理工程があり、調味料の組み合わせによって複雑な味付けがされること。がそうだ。
これに対して、日本では油の使用量が少なく、世界的に見ても生食が多い。もちろん乾燥食品も多様だけれど、それ以上に新鮮食材が優先される。複雑な調理も有るけど、おひたしのようなシンプルな調理も多いし、素材の味がわかる食べ方が良いとされる。こうして比べてみると、違いがよく分かるだろう。
食文化が異なる要因のひとつに「水」がある。きれいな水をどれだけ豊富に利用できるか、である。大陸は平坦な地域が多く、そこに流れる川は流れが緩やかだ。大量の水は目の前に有るものの、それは濁っていたり泥水だったりしてそのまま飲めるようなものではない。ダシのほとんどが水なのだから、この水をそのまま使えば泥や濁りに影響を強く受けてしまう。当然、茹でたり煮たりする調理には向かない。だから、油と加熱が調理の中心となって発達したわけだ。同じく中華料理で多用される「蒸す」という調理方法は、泥水に浸すこと無く加熱することが出来ることで広がったとされている。
中華大陸は広い。もちろん、きれいな水が手に入る地域もある。比較的南の地域では水を使った料理も発達していて、水田のルーツである長江上流域では米を炊く文化も生まれた。ただ、人口が増えていくと様々な地域に人が住まうようになり、きれいな水が手に入りにくい環境で「なるべく水を使わない料理」が発達したのだろう。
それに比べて、日本の多くの地域では豊富な水が手に入る。しかも、山がちな地形のおかげで川の流れは早くて濁りにくい。「湯水のごとく」という慣用句が生まれるほどに、贅沢に水を使うことが出来るのだ。だからこそ、「茹でる」「煮る」という調理が発達したし、食材をきれいに洗うことが出来るから「生食」が根付いたといえる。「素材の味を楽しむ」という価値観もまた、水の影響だろう。中華スープは鶏や豚や葱など、いろんな食材をじっくり煮込んで作る。水の弱点をカバーするために、徹底的に味を取り出すのだ。さっと旨味だけを取り出せる澄んだダシと、生食、シンプルな調理が中心の日本だからこそ、素材の味に注目することが出来たと言えるだろう。
つまり、「和食は水の料理」という言葉には「素材≒自然と向き合う」という姿勢も含まれているのではないだろうか。
湯水のごとく水を使う
きれいな水が豊富だからこそ、その水のありがたさを感じにくい。日本は世界的に見て、そういう特徴的な環境なのだ。人間の体とって、最も重要な水の役割は「飲む」ことである。農耕や洗浄に使うだけならば、さほど清浄な水でなくても構わない。ところが、日本ではどんな場合にもきれいな水を使うことが出来る。というよりも、きれいな水しか手に入らないのだ。他の国々から見れば、とんでもなく贅沢なことである。
日本は古くから食産業が発達している。醤油や味噌は、現代では購入することのほうが多い。味噌が家庭で作られることが多かった時代には、味噌づくりのために種麹を購入した。発酵食品や乾物など、手のかかる加工食品から先に「家庭の外」で生産されるようになったのだ。その中で、やはり水は重要な役割を果たしている。
製品そのものが液体である酒や醤油は水の影響が大きい。いずれも成分の大半は水なのだ。これもダシと同じで、酒の成分が溶け込んだ水だから良い水が必要になるし、微生物が働きやすいミネラルが求められる。だけど、活躍するのは材料としての水だけではない。木桶や酒樽を洗うには、大量の清潔な水が必要なのだ。
社会のインフラとなる加工食品は「変わらぬ味」が求められる。買うたびに醤油の味が変わってしまうようでは、使いにくいからだ。使い慣れた道具が繊細なコントロールをしやすいのと同じで、使い慣れた調味料のほうが使いやすいのである。味を安定させるためには、発酵食品の現場では「微生物が安定して働く」ことが大切なのだ。狙った通りに、つまり設計図通りに発酵を進めるためには、設計図にないものが混ざってしまうことは極力避けたい。だから、発酵に使う道具は徹底的にきれいに洗う必要があるわけだ。これを可能にしているのが、「豊富なきれいな水」だ。
魚介類も野菜も、きれいに洗うことが調理の最初のステップだ。泥をきれいに落とすことで、野菜料理が泥臭くならずに澄んだ味になる。澄んだ味だからこそ、シンプルであっさりとした味付けで充分美味しいと感じられる。魚も同様に、表面のぬめりや内蔵や血をきれいに洗い流すことで、臭みや雑味をおさえられる。水そのものが澄んでいるだけでなく、水によって食材が「澄んだ」状態になるのだ。
洗浄は、前述の「清浄さ」や「自然と向き合う」ことに繋がっている。
つまり、「和食は水の料理」という言葉には「道具としての水」も含まれているのではないだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。
和食が和食である理由の全てが水、というわけじゃない。いろんな要素が複雑に絡みあって、和食という独自文化が維持されているんだよね。だからこそ、異文化を取り入れても頑固なまでに「ニッポン」を貫いているわけだ。いろんな要素を考えてみるんだけど、やっぱり「水」っていうのは欠かせない重要なピースなんだと思うんだよね。そのわりに、ぼくら日本人は「きれいな水」っていう貴重な資源に対して意識が薄い気がするんだ。もうちょっとだけ、意識してもいいかな、とは思っている。
「古池や蛙飛び込む水の音」
いま、頭の中に浮かんだ景色の中で、池はどうだった?たぶん、濁っていなかっただろうし泥水ではなかったと思うんだ。それが、「ニッポンの水」っていう天然資源が映し出す世界なんだと思うよ。