格差社会と言われて久しい。もうね。あるところにはあるけれど、無いところにはない。そういう偏りが問題だって話だよね。だけど、格差のすべてが悪いってことじゃないんだと思うのよ。だって、格差というのは差異のことで、差異は個性とも言えるから。経済格差があるのはあるんだけど、その差が大きすぎるのが社会構造としてはバランスが悪いよねってことなんでしょう。
じゃあ、社会問題になっているのは、格差のどの部分だろうか。格差という言葉に惑わされない方がいいよなあ、と思いつつ、格差という言葉をごちゃごちゃと弄り回しながら掘り下げてみようかと思う。
経済的な格差が問題になっているのは事実
気にするのはこっちだよね。ちょっと前までは、良い学校に言って良い企業に就職してたら、だいたいの成功が約束されていた時代。大金持ちじゃなくても、それなりに人より裕福に暮らすことが出来たんだよ。だけど、もうすでにそれは過去のこと。
起業して会社を大きくした人の中には、自分が成功したのは運だと言い切る人がいる。こういうふうにして頑張ったからなんだって、そういうこともあるのだけどね。中にはそれを自慢気に語る人もいる。なんだけど、実際のところ、能力とか努力だけでは大きな成功にはならないことがほとんど。必要な条件だけれど、十分じゃない。結局は「運」が良くなければ、どうにもならないってことなんだ。たしか、松下幸之助も同じような事を言ってたよね。違ったっけ?
だから。
今、お金が手元に集まってきているのも「運」だと捉えるし「偶然」だと考える。もう、そういうことにしちゃうんだってさ。能力だけの問題じゃなくて運の要素が強い。でね。そう考えるようになると、今お金がないのもたまたま運が悪かっただけってことになる。もちろん、何の勉強も努力もしてなかったら努力不足なんだろうけどさ。自分なりに頑張ってみたけど、運悪く実っていない。そういう事になっちゃう。あ、マイケル・サンデル教授に言わせると、勉強や努力が出来る体に生まれたのも運のウチだってことになるのか。そうなると、全てが運だよね。
運が良いだけ、悪いだけ。その結果で富の格差が生まれているんだとしたら、それは不公平だと感じるかもね。だから、一部の成功者たちは富を社会に配りまくるのだそうだ。運良く成功して、それも色んな人に支えてもらってそうなった。だから、その運の集大成を分けていく。それがわかっているのならば、初めから支える側の人も報われるわけだよね。
そう。もはや、これは個性だ。運命と言い換えてしまうと、なんだか違って聞こえてしまうから好きじゃないんだけど、それに近い感覚なのかもしれないね。なんだか知らないけれど、ストレスを感じること無く自然に出来ちゃうことってあるよね。他の人から見たら、実は面倒だったり、スキルを必要とすることなのに、なぜか自然に出来てしまう。で、そういうのってひとりひとり違うんだと思う。ぼくには、そういった特性が先天的なものなのか環境要因なのか、それとも努力の結果なのかわからない。ただ、実際にそういうことがあるよね。
これを、たった1つのモノサシで測るとする。そうすると、優劣が発生するじゃん。当たり前なんだ。得意なジャンルで計測してくれたら良いけれど、苦手なジャンルだったらたまったもんじゃない。世界的な天才アインシュタインだって、体力だけが評価基準の世界に生まれたら劣等生になってしまう。これって極端な例に見えるけれど、現代社会はかなり近いことをやっているんだよね。
ひとつのモノサシで測るのであれば、格差が生まれるのが必然にもみえる。むしろ、その格差はあった方がいい。格差っていうのは、個性そのもののことだから。その個性を活かした仕事をするなり、活動ができて、そこで周囲の人達から喜ばれれば良いんだよね。
問題は、自分の持っている個性がお金に置き換えられるタイプなのかってことだ。たまたま、お金に置き換えやすいタイプの個性を持って生まれた人は「運」がいい。それこそ運じゃないかな。そうじゃないタイプの人は、いろんな工夫をしなくちゃいけないんだよね。中には、マネタイズそのものを誰かに考えて貰う必要があるかもしれない。ほら、世の中にはマネタイズの仕組みを考えることが個性だという人もいるはずだから。そこに乗っかる。てことで、なんとかならないかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。社会学者でもなんでもないから、とくに論理があるわけじゃないんだけどさ。素人目線で社会を見ていたら、なんとなくこんな感じじゃないかな、と思ってる。格差っていう言葉が、すなわち悪いことだというような論調で語られることがあるんだよね。それってどうなのかな。ホントにそうなの?そんな話でした。