たべものラジオのリスナーさんのSNSを見ると、よく書籍に関する話題を目にする。きっと普段から読書をされるんだろう。でも、普段からよく本を読むという人は、少数派らしいのだ。みんなどのくらいの読書をしているんだろう。
たべものラジオというポッドキャストを始めたおかげで、以前よりも読書量が増えたんだけど、それでも月に10冊程度かな。なにしろ、一冊を丁寧に読み解くスタイルで番組を構成しているもんだから、時間がかかってしょうがない。息抜きに、関係のない本を読むときには、気持ちよくページを捲ることが出来て楽しい。
学生を終えたら学ばなくなる。というのは、日本全体の傾向らしいんだ。高校、大学を卒業したら、晴れて勉強から開放される。みたいな感覚があるのだそうだ。だけど、よく考えたら無茶な事を言っているんだよね。だって、100年の人生で、学びの時間が22年だけなのだ。最初の20年程度の勉強で得た知的資産で、残りの80年を生きていこうというのだ。そんなわけ無いよね。
知識は知恵の源泉と言うけれど、知識は追加し続けなくちゃいけないし、使い続けなくちゃいけない。人間は忘れたり劣化するからね。少しずつ、長年に渡って続けるしかない。一生分の食事を20年間で食べたから、残りの80年は食べないなんてことが無いのと同じだよね。だから、好むと好まざるとにかかわらず、一生つきまとうことになる。
学ぶと言っても、本から学ぶことだけでないのは事実。むしろ、経験というのは何者にも代えがたい学びだと思う。ただ、同じ経験から何を読み取れるか、どれだけ解釈を深められるかは、それまでの学びの質と量によって変わる。ぼくは、学習率って言っているんだけど、これを上昇させるために最も低コストで効果が高いのが読書なんじゃないかと思うんだよね。
例えば、政治家が市民の声をよく聞き、それを政治反映すると宣言する。それは現行の民主主義において、超重要。実際に現場に行って体を動かして経験を積み重ねることは、政策をより良いものにするために役に立つはずだろう。だけど、先述の通り、それらの声や体験から何を読み取るかというのはそれまでの学びの量に比例するわけだ。だから、過去から現在に至るまで、国政を牽引してきた人たちはみな学びを止めない。
紀元前のマケドニア帝国を牽引したアレクサンドロス大王には、アリストテスという家庭教師がいたことは有名だ。江戸幕府を起こした徳川家康が、隋唐帝国の政治システムを学んでいたことは、あまり知られていないかも知れない。直接お話する機会は少ないが、学び続けている議員の方々にお会いすることもあって、刺激を受けることもある。
いつだったか忘れたけれど、難しい文言をやめてもっと平易な文章にすべきだという主張を聞いたことがある。会話の中でも表現や比喩が難しいとか。それって本当かな。先日お会いしたスタートアップ企業の代表との会話で、当たり前のように古今和歌集の仮名序を引用していたんだけど、それって本当に誰にでもわかるように言い換える必要があるのだろうか。
教養として知っておくべきことと、好きな人や専門家だけが知っている知識というのは違いがある。けれども、先述したようなアレクサンドロス大王という名や、徳川家康が何者かという知識は、教養の範疇だろうと感じている。わからないから廃止するのではなくて、「わからないことをわかっている状態にしておく」のが、教育というものなんじゃないかと思うんだよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。週に1冊くらいはなにかしらの本を読みたいよね。小説でもいいし、豊かな知識を与えてくれるものでもいい。現役世代は、なかなか忙しくて時間が採れないかもしれないけれど、自己投資としてはかなり大きなモノになると思うんだ。卒業したら勉強から開放されたと思うんじゃなくて、これで好きなことを好きなように学べると思ったらいいんじゃないかな。