スーパーマーケットへ行くと、様々な食材を買うことが出来る。野菜も肉も魚も、そして加工品も、かなり遠くから運ばれてきている。遠く地球の反対側から届けられる食材だって、もう珍しくもなんとも無い。よくよく考えれば、本当にすごいことだ。
人間以外の生き物は、現地調達が基本。ほとんどの動物は食料の保存をしないし、するとしても自らの足で移動できる範囲に留まる。人間ばかりが、そうではないことをしているのだ。力説するまでもなく誰でも知っていることなのだろうけれど、誰でも知っているほどに当たり前になっているということが、改めて凄いことだと思う。
社会の上流という人たちが地域外の食料を食べるようになったのはいつ頃だろう。全国各地から税としての食料が朝廷に納められたのが初期段階だろうか。食国(をすくに)は、大王による統治を示す言葉だけれど、食べることが服属と支配の関係と同義であるのが興味深い。
支配者ではない人々が域外の食料を手にするようになるのは、鎌倉時代の定期市の発達だろうか。問丸という存在が京と周辺地域の物流を担っていて、荘園から京へと税を運ぶ。代わりに、京の商品を地方へ届けて販売するスタイルが定着する。主に物品だったとは言うけれど、中には保存の効く食料も含まれていたかもしれない。
本格的に食品流通が動き出すのは、やはり江戸時代。陸路海路を駆使して、各地の食材が大消費地へと送られるようになっていった。世界史でも同じだけれど、統一国家が登場すると、その範囲内の交流が活発化する。アケメネス朝もローマ帝国もモンゴル帝国も、域内の治安を安定させて文物の移動を活性させたという意味で、食の人類史に大きな意味を持つ。
日本の大量輸送は主に船。だから、かつての大きな港は様々な食品や技術や文化がもたらされた。つまり点と点が繋がった状態。そこから内陸へのネットワークが広がっている。内陸は内陸で川を使った水運と、馬による輸送が発達した。時代を経て、徐々に点が大きくかつ数が増えていく。大小の港や宿駅がこれに該当する。やがて、それらは鉄道やトラック輸送へと発達していくことになるのだが、基本的なネットワークの作り方は同じだ。
どれだけ輸送技術が発達したところで、家庭の食事のほとんどは地元のもの。江戸などを除けば、それが当たり前だった。人口の殆どは農民だから集落の中で賄えるし、外来品は高くて保存食品ばかり。地産地消などと言わなくても、そうなるしかない。
現代社会が最も突出しているのは、物流ではない。もちろん大きく発展しているのだが、原型は近世にも見られる。食の輸送事情をガラリと変えたのは、冷凍冷蔵技術、梱包技術、除菌技術だろう。これらの技術なくしてノルウェー産のサーモンを食べる環境は作り得ない。
さて、世界中の食材が行き交うようになった弊害もある。
例えば、偏った原料出荷地域は、プランテーションに代表されるように社会基盤がとても脆弱だ。なにかトラブルが起きれば、19世紀初頭のアイルランドジャガイモ飢饉や、第一次世界大戦後のウルグアイの牧羊のようにあっという間に崩壊する。
移動コストも馬鹿にならない。いまや世界中で食料生産に膨大なエネルギー資源が使われているのは、農業機械の燃料や肥料の生産、一次加工工場のエネルギーなどが知られている。これに加えて、輸送にかかる燃料や冷蔵庫の電気もかかる。
一方で、まとめて大量に作ったほうが良いことも多い。生産効率が良いのはもちろん、あらゆる技術が集積されていくし、食料分配のロスもある程度抑えられる。コストよりも得られるリターンのほうが大きいから現代のような構造になっているのだろう。
問題は、この仕組みは「人口増加」を前提に構築されてきたということだと思う。どの程度が適切なのかはわからないが、一定以上の人口がいるという前提。だから、人口が減ると、加速したインフラを縮小するしか無いのではないかと思っている。もちろん、食料生産料の低い地域への供給を止めるという話ではない。人口とその分布に応じた適切なインフラがあるのではないかという、個人的な問いである。
インフラというのは必ず維持費がかかる。個々の事業者が行っていることとは言え、マクロに見れば国家の負担だ。人口が減っていけば、あれもこれも維持したいというワガママはきかなくなり、取捨選択が必要になるはず。その時は必ずやってくる。ならば、少しずつでいいから、食糧供給の仕組みを考え直していかなくちゃいけない。ということなんだろう。
今日も読んでいただきありがとうございます。域内流通と、広域流通のバランスなのかもね。技術的なものもあるけれど、社会の要請として適切なバランスが各時代に存在していたのかな。現代の技術をうまく使いながら、もう少し域内流通の比率を上げていく、というのが良いような気がしている。