「失礼クリエイター」とは、たまたまインターネット上で見かけた表現だが、マナー講師のことをそう表現しているらしい。なかなか皮肉の効いた言い回しだ。従来のマナーだけでなく、新たなマナーを独自解釈で創作することを揶揄したものだろう。マナーが有るからマナー違反が生まれるのだから、たしかにマナー違反を量産するクリエイターといえる。
個別具体の事例はさておき、そもそもマナーはどうやって生まれてきたのだろう。
一般的に「同席する人にとって、不快でないことが大切」と考えられている。個人的に納得のできる考え方だ。
そうなると、「人は何を不快に感じるか」が根底にあるということになるだろう。言い換えるなら、多くの人が「なにを美しいと感じているか」を、ある程度共有していることが前提になるということでもある。
美醜の観念というのは個人の好みに左右されるものだけれど、一方で文化的背景に影響を強く受けるものでも有る。幼い頃から接している家族の振る舞い、伝統的な行事、直感的な感覚とそれを表現した言語。こうした環境からの影響は「量」と「強度」によって定まる気がする。自分が認識できる世界のなかで、どれだけたくさん「美意識」に触れるか。そして、美を規定する人物の存在がある。
例えば、家族。なんとなく、美意識というか規範のようなものが自然発生していて、多くの年長者がそれに従っているとする。ならば、新参者である子どもはその規範をインストールすることになる。齟齬が有る場合は、だれかが「こっちだよ」と言えば、だいたいそれに従うことになるはずだけれど、その場合「誰が言ったか」が重要になる。それは、もっとも信用されている人物、尊敬と言ってもいい。良し悪しはさておき、この方法が最も「多くの人が納得できること」であり、「コンセンサスコストが最も低い」からだ。
マナーは「感性の集合知」であり、合意されたものである。ということになりそうだ。
だとすると、歴史と伝統という「集合知の時間的蓄積」は、たくさんの人の合意を得やすい要素なのだ。家族よりもずっと多くの人が共有できる感性。それは、誰が言ったかという「個の強度」ではなくて「圧倒的な量」。恒常性バイアスとも言えるけれど、どちらかというと「長い間多くの人に支持されてきた」という事象そのものに対する信用だと思う。
失礼クリエイターと揶揄されている人たちは、基本的な合意を得られていないのだ。もし、彼らが美醜を定める象徴的存在として多くの人から支持を集めていたのなら、新たに生み出される独自マナーすらも社会の常識として適用されるだろう。けれども、彼らの依拠するものは「マナー講師」という見かけの肩書であったり、根拠の説明力でしかない。有る種の信仰とも言える「美意識の集合」には到底太刀打ちできないのだ。文脈を無視した「新設マナー」には、違和感を覚えるヒトが多いのは当然と言えば当然である。
マナーは行為と言葉に大別することができる。細かい部分で諸説分かれることは有るけれど、比較的言葉は合意を得られている型が存在している。飲食店で店員に声を掛ける時「おいこら!」という人はいないだろうし、「罷り越しました」と応える店員もいない。その場に応じた適切な言語表現というものは、周囲を見て真似るだけでも学ぶことはできるけれど、やはり日本語教育の影響は大きいと思う。そう考えると、なぜ所作に関する教育環境が整備されていないのだろうと不思議になってくる。コミュニケーションには言語と非言語があると言われているのだから、言語だけでなく非言語を学ぶ機会があっても良いような気がする。
肘をついて食べない。足を組んだり、斜めに腰掛けない。食べ残しのある皿に別の皿を重ねない。などの基本的なマナーは、小学校の国語の授業で習う丁寧語と同じように教育課程に組み込んだらどうだろう。祖母によれば、そういうことは家庭で伝えられてきたものだということだったが、もはや多くの大人は教えられるだけの素養を持ち合わせていないという前提に立って、公教育にしてしまうのも一手である。
個人的な見解だけど、テーブルマナーというのは敬語みたいなものだと思っている。所作における敬語。所作なんか自由にさせてほしいというのは、無礼な言葉遣いをしても構わないと言っているようにも感じられるのだ。それでも「私の勝手だ」というのであれば、他人に失礼な物言いをされたときに怒らないでほしいとは思ったりもする。
今日も読んでいただきありがとうございます。マナーに関して書くと、ぼくが完璧にマナーを理解していると錯覚されてしまうことがあるけれど、もちろんそうじゃない。社会によって変遷するものだしね。ただ、現代国語を知っていたほうが社会で役に立つというくらいのレベルでは共有されていたら良いなとは思うんだ。