「商品が欠品しそうなんだけど、発注ってどうなっていますか?」という質問をされた担当者の答えが
「発注したほうが良いと思うけど、良いのかな?」と。ちょっと小耳に挟んだ話なのだけど、ちょっとびっくり。
これは、小売店のはなし。上司は普段から売り場にいるというわけではなく、いろんな事業に関わっていて週に何度かやってくる程度。で、基本的にその会社では社員自らが考えて提案することを求められていて、まだオープンして間もないお店だから仕組みが完成していないから、どんどん提案していかないといけない。冒頭の会話はそうした中でのパートさんから正社員に対する問いかけだそうだ。
パートさんは、家庭の事情で正社員にはなっていないけれど、社会経験豊富なお姉様。じゃあ、上司に電話してみよっか、と優しく提案したそうだ。
なんだか頼りない感じがするんだけど、案外あちこちで見られることらしい。上記の話を聞いた他の人も、「あるある体験」として共感していた。上司に質問するなり確認するなりすれば、すぐに解決できることなのに、自分の中で答えのない問答をしていて結果として保留状態になる。
ともすると、世代間ギャップや個人の資質や能力に原因を求めてしまう。いや、確かに担当者の考え方も少しは変えていかなくちゃいけないとは思うんだけど。そればかりじゃないだろう。なんとなくだけど、社内のコミュニケーションがうまく言っていないんじゃないように思える。悪いわけじゃないけれど、結構好き勝手に話せるほどの距離感にはいない。コミュニケーションっていうのは、シチュエーションとか関係性があってこそ機能するものだと思っているんだけど、その観点でみると日常の関係性が築けていないってことに思える。
あとね。その社員さんはとても優しいのだと思う。想像だけど。例えば、自分自身が他人から指摘されるのがとても苦手だとする。あるよね。ちょっと指摘されるだけでも必要以上に凹んでしまうこと。言ったほうは軽い気持ちで言ったつもりなのに、受け止めるほうが落ち込んでしまうっていうこと。ぼくだってある。
これこそ、「私達は叱られて育てられたのに」とか言って、世代間ギャップに捉えられがちなんだけど。そんなこと無いと思うんだ。というのも、親子の関係がそうだから。我が家の話なんだけど、妻が娘たちに強く叱るのは良いらしくて、その場ではちょっと凹んだり反抗したりするけれど、しばらくすれば回復するんだ。だけど、ぼくが叱るのは怖いらしくて、ちょっとでも強めに言うとズーンと凹んだまましばらく立ち直れない。まだ子どもたちが幼いからってこともあるんだけど、ぼくと娘たちの関係性においては、そうだっていうこと。つまり、個々の関係性によっては強烈な体験として受け止められることがあって、それは当たり前のようにアチコチにある。認めてもらいたいと思っている相手だからこそ、言われると凹むなんてこともあるからね。
で、仮にそういうことにセンシティブな人だったとして。自分が指摘されたときにツライから、他の人にも指摘しない。上司からすれば、指摘してもらいたいのだけれどね。それこそ、現場の「困った」は管理者としては重要な情報で、その情報が届かなくなると組織が崩れてしまう。困ったと言うだけじゃなくて、提案もセット話を持っていくのが良いのだけれど、アイデアがなければ相談すれば良い。それは、嬉しいことであって凹むことではないはずだし、それで叱るような上司は管理者には向いていないと思うんだ。だからまぁ、言って良いんだよという関係性を作ったほうが良いとは思うのだけど。
大した話じゃないんだけど、相手の立場で物事を見るって、結構難しいんだよね。ぼくも気をつけているつもりではいるんだけど、それでも「そうじゃないよ」って言われることも多いし。それこそ、何を大事だと考えているか、優先順位とかバラバラだもの。
だからこそ、なるべく一緒にいる時間を作って、できれば一緒に作業をして、互いの価値観をすり合わせるのが大切なんだろうな。言葉も大事だけど、共有体験とかの言語以外の部分のほうが、後々まで影響しそうな気がする。ある程度の関係性が出来るまで、最初くらいはその時間を持つのが良さそうだ。平たく言っちゃえば、まずめっちゃ仲良くなって、それから時々顔を出したときに「よっ!元気?」「ひっさしぶりじゃないですか。たまには顔出してくださいよ」なんて言い合えるくらいになっていると良いんじゃないかなってことかな。
今日も読んでいただきありがとうございます。ホント、人間関係って面倒くさいよね。面倒くさいんだけど楽しいし、嬉しい。ちょっと思うんだけどさ。だいたいの悩み事って人間関係なんじゃない?で、嬉しいことも人間関係だって気がするのよ。