意識せずに息を止めていることがある。良くわからないのだけれど、文章を書いている時や文字を書いているときだったり、包丁仕事をしているときだったり、なにかに集中しているときが多い。そして、ふと我に返ったときに息を止めていたことに気がついて、深呼吸するのだ。寝食を忘れて、という慣用表現があるのは知っているが、まさか動物が呼吸を忘れるなどということが有り得るのだということに驚いている。そして、少しばかりビビっている。
基本的に、このエッセイは書きっぱなしだ。文章構成などというものを考えていないし、うっかり誤字があったとしても、書いたときに気が付かなければそのままになってしまう。良き文章を書こうと思うならば、校正はしたほうがいいし、見返したほうが次に文章を書くときにも良くなる。わかっているけれど、ここは「思いついたことを吐き出す場所」ということにしているので、思考とタイピングのスピードに任せることにしているのだ。
台本のない独り言。ではあるのだけれど、時々読み返すことがある。しばらく時が経ってからコメントを頂くなどのきっかけがあったときだ。書いたことを忘れているので、割と新鮮な気持ちで自分の文章を、ある意味他人事のように読むのである。これが、なかなかおもしろい。
なかなかいいことを言っているな、と過去の自分を称賛することもあるし、何を馬鹿なことをと一蹴したくなることもある。興味深いのは、息が詰まるような文章があることだ。文章が妙に細切れになっていて、リズムが取りにくい。流れがぎゅっと詰まっていて、気疲れする。などということを自分の文章から感じるである。書いた内容を覚えていないとはいっても、やはり書いたのは自分なのだ。読んでいるうちに、書いていたときの感覚が蘇ってくる。きっと、このときは息を止めて書いていたんだろうな。そんな感覚を得ることがあるんだ。
てっさ(ふぐの薄造り)を引いているとき、集中のあまり息を止めていることがある。凛としていて角が立った感じに仕上がるのだけれど、とても肩が凝る。それに比べて、ゆったりと呼吸をしているときは滑らかで自然な線を引くように包丁が動いている感覚がある。ずっと呼吸を止めているわけではないが、通常の呼吸とは違う。そうだ。歌を歌うときのブレスのような感覚。必要なときには、息を吐くとか止めるとかしてコントロールするのだけれど、動作の切り替えなどのタイミングでゆったりと息を吸う。
若い頃に少々ドラムを演奏していたことがある。管楽器や歌唱のように息を使うわけではないのだけれど、やっぱり呼吸が大切だと思ったのを思い出す。うまく呼吸が出来ているときのほうが体が楽だし、なにより演奏していて心地いい。自分では良くわからないけれど、演奏を聞いていた人に褒められることがあるのは、決まって呼吸がうまく出来ているときだった。
曲の変わり目などで、ドラムが派手に演奏することがあるのだが、これをフィルインと言う。見せ場でも有り、盛り上がるタイミングでもあることが多いので、このときはちょっと息を止めているかもしれない。少なくとも吸ってはいない。ちょっと方に力が入って、グワッともりあがる勢いがある。で、次の小節の一泊目にはシンバルがジャーンと打ち鳴らされるわけだけれど、ぼくはその次の瞬間が好きなんだ。2拍目からパターン、つまり平常に移って、3拍目に移る前にスッと息を吸う。
音楽を生業にしているわけでもないし、そんな技術もセンスも持ち合わせてはいない。書にしても文章にしても、みんな素人である。ではあるのだが、自分でもやってみたうで鑑賞してみると、表現者の呼吸というのがなんとなく伝わるんじゃないか、という気がするんだ。明確には気付かれないことかもしれないけれど、なんとなく伝わっていて、それが響きになっているんじゃないかな。
今日も読んでいただきありがとうございます。たべものラジオでも、他のポッドキャストやユーチューブでも、なんだかうまく内容が入ってこないと感じる回があるんだよね。自分でやっておいてなんだけど、早すぎるとか情報がつまりすぎているというのもあるけど、呼吸を忘れてしゃべっているんじゃないかな。ふと、そんなことを思い出した。気をつけよう。