今日のエッセイ-たろう

「食事」という人類の営みの歴史から見る「作法」と「矜持」 2023年5月25日

時々目にすることがあるのだけれど、飲食店によって独自のルールを決めているという記事や書き込みがある。同じく飲食店を経営している身であるから、気持ちは分からなくもない。けれども、独自ルールが特徴的であるということが記事になるような場合、少々やり過ぎではないかと思うケースが多いように見える。

食事というのは、本来は食べる人が主役の時間。まだ外食産業などが発達するよりも前は、コミュニケーションのための空間だった。元々は、生きるために食べるという行為だったものだけれど、まず最初に人類史の中ではコミュニケーションツールとして発展したのだ。

中世の日本では、酒礼に始まり饗宴へと続き、その後には穏の座と呼ばれる二次会へとなる。食と飲酒を通じて、会話を楽しみ親睦を深めること、それぞれの日常における関係を深めること。それが、貴族にとっての会食の基本だった。そこで供される食事は、当然ながらコミュニケーションを豊かにするためのものである。

海外に目を移しても同様のケースが見られる。古代ギリシアのシュンポシオンは、プラトンが残した著書「饗宴」の題名で知られている。食事の後の酒宴で、親しい雰囲気のなかで論議が行われる。参加者がそれぞれの異なった視点から考えを話して、それをもとに論議となる。こうしたシュンポシオンが「親しい雰囲気」で行われるために、夕食や酒が活用されたのだ。時代が変わって国家や政治の体制が変わっても、その後のヨーロッパ社会で食事の場はコミュニケーションツールとして活用され続けてきた。明治時代になって、アジアとヨーロッパの食事文化が改めて融合したとき、晩餐会や酒宴が双方のコミュニケーションの場として機能したのは、人類の共通した文化だからなのかもしれない。

コミュニケーションツールとして発展した食事文化は、それ自体が成立し続けるために工夫が施されている。それが、マナーや作法と呼ばれるようなものだろう。初期の頃はほとんど注目されることがなかった料理人や食材にも、しっかりと敬意が払われるようになっていく。ホストが中心となって、ゲストのための食事を用意する。ゲストは、ホストの心遣いに感謝を伝えたり料理そのものを褒めたりするのだけれど、ホストへの言葉は代表者への言葉であって、裏方への経緯も込められていたという。

料理人という存在が、食事の表舞台に登場するようになったのは19世紀くらい。誰それの料理を食べた。ということが自慢になる。店の看板ではなく、人物が注目されるようになった時代だ。社会によってタイミングは異なるけれど、概ね同じ頃に起こった現象のようだ。

食べる人が、料理人に敬意を払う。それは、具体的に褒めるという行為に現れることもある。けれども、それだけではなく食事中の行為そのものに込められている。例えば、日本料理の作法に、お椀の蓋を置くときには伏せないというのがある。伏せると、蓋の内側についた水滴が膳に輪っかの跡を作る。素材にもよるかもしれないけれど、木材はそれによって傷んだり長くあとが残ってしまうのだ。だから、食べる人の気遣いの表れとして作法が存在しているのである。

食べ方においても、一定の作法は存在していたようだ。例えば、刺身に添えられているワサビは、醤油に溶かないといったようなもの。実際には作法でもなんでもないのだが、粋というような形で伝えられてきた。それは、料理人が苦労して入手した上質な本わさびと同様にして用意された魚が前提にある。それを敏感に察知して、味を崩さないようにすることをよしとする食べる側の美学のようなものだろう。美しく盛られた料理の形を、醜い形に崩さないように食べるというのも同じ心から生まれた作法のように思える。

料理人がスターのように扱われるようになるのは、北大路魯山人やオーギュスト・エスコフィエ以降のこと。ただ、それでも料理人の多くは「裏方」としての矜持を忘れなかった。食事をする人が主役であるのだから、あくまでも彼らが「食事を楽しみ」、「コミュニケーションをはかる」ことが出来るように整えることが「裏方」としての矜持であったのだろう。

それが成立するための基礎として、作法やマナーが介在していたと考えられる。

ところが、である。食事中は会話をしてはならないなどという、独自のルールが登場し始めた。一部には存在していたのかもしれないけれど、ざっと調べてみた限りは平成以降の出来事のようだ。もしかしたら、メディアの発達によって可視化されるようになっただけかもしれないのだが。ラーメンを一口も食べないのに薬味を入れたら退店させるような店もあるらしい。写真を撮っただけでも同様のことを言われる店もあると聞く。

せっかく作った料理なのだから、まず最初に素の味を味わって欲しい。冷めてしまう前に食べてほしいから、写真撮影の時間をやめて欲しい。会話に集中してしまって、料理の味に気が向かなくなってしまう。そういう気持ちが湧くこと自体はわかる。わかるのだけれど、それは強制されるべきものなのだろうか。

心意気というのは、強制されないゆるやかなつながりの中でこそ、伝わるものなのだと思うのだ。少し混み合った電車の中で、高齢者などに席を譲るとする。それが優先席や、高齢者専用席であればどうだろうか。そこに、心遣いがあったとしても「ルールなのだから当然だ」ということになる。もしかしたら、「ルールを守らないだめな人」というレッテルを貼ることにはならないだろうか。ルールの強制は「心意気」が存在するゆとりを奪う行為にも思えるのだ。持論ではあるのだけれど、長い食文化の系譜を眺めていると、どうもそのように感じるのだ。

もしそうだとすると、料理人に出来ることは「ルールの強制」ではない。丁寧に味わいたくなる料理を作ることである。会話に集中して盛り上がっていても、一口食べた時に思わずはっとするような料理を加えることだ。かと言って、コミュニケーションを阻害するようなものではなく、会話が弾むような程度に調整することが求められるだろう。コースならば、前半の一品で十分だ。その後の料理を味わいたいという意識が残ればそれで十分に役割を果たしたと言える。だから、料理人の多くは前菜に注力するのである。

今日も読んでくれてありがとうございます。美術館でも同じようなことがあるような気がするんだよね。確かに大声で騒いでいる集団があると、うるさいなあと思う。けれども、家族や友人と美術を鑑賞していたら、その場で感想を言い合うのは、良いことだと思うんだ。無言をルールにしてしまうと、美術の楽しみ方が減っちゃうんじゃないかな。という意味で、似ているような気がするんだ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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