今日のエッセイ-たろう

ゴミがゴミになるとき。その境界線。 2024年6月9日

ゴミって、誰かが「いらないもの」と「決めた」ときにはじめてゴミになる。そして、ゴミだと定義されたときから、なぜか「汚れ」とされる。汚いというのは言い過ぎな気がするけれど、清浄ではないものくらいの感覚。全てとは言わないけれど、食品に関してそのように扱われることがある。

例えば、生ゴミを鍋や電子レンジを使って加熱する。それは生ゴミのカサや重量を減らしたい、微生物が分解しやすいようにしたいなどの理由で行われる。そういう話をすると、「ゴミを鍋にいれるの?なんか汚い…」というような反応が返ってくることがある。ついさっきまでまな板の上に乗っていたり、皿の上に乗っていたりしたもの。つまり、直前までは食材として扱われていたものなんだけどな。

ゴミと一口に言っても、種類がある。可燃ごみや金属などといった分類もあるのだけれど、状態による段階みたいなものもあるんだろうな。

食べられなくはないけれど、味が悪かったり硬すぎたりして食用としては相応しくないと判断されるもの。りんごの芯とか、魚のヒレとか。で、調理の過程で排除される場合もあれば、食べ残される場合もある。包丁でりんごの芯を取り除くのか、丸かじりして残すのかって感じだね。

これがゴミ箱に入れられたとき、何と触れるかというのもポイントになるのか。数時間前にゴミ袋に入れられた魚のハラワタの上にのったりんごの皮。これはどうだろう。すぐに取り出して洗えば食べられそうだ。でも、しばらくして雑菌が繁殖してしまったら衛生上問題があるな。

とまぁ、こんな具合に事細かに見ていけば、ゴミがゴミとなるには段階のようなものが存在するだろうと想像できる。食材がゴミと認識される「境界線」とでも表現しようか。で、境界線が人それぞれだから「それ、ゴミにしちゃうの?」ということもある。ぼくにとっては「食材」なんだけど、その人にとっては「ゴミ」。むろん、その逆だってある。

境界線をもう少しひろく考えてみる。

スーパーマーケットでも当たり前のように「魚のアラ」が売られている。頭やカマや中骨の部分ね。日本人の多くは、それを食材だと認識していると思う。じゃあ、「エビの頭」だけがいっぱい詰められたパックを見たらどう感じるだろう。常識的に理屈で考えれば、食べられるし調理したら美味しそうだということになるのだろうけど、パッと見た瞬間に「ちょっと気持ち悪い」とか「グロい」と感じる人もいるのじゃないだろうか。

さすがに「ゴミと認識」するほどのことではないだろうけど、境目のように感じる人だっている。それも仕方ないかもしれない。実際にエビの頭は食べ残されたり、調理工程で取り去られたりして、ゴミ箱にいくことがほとんどだから。

本膳料理や会席料理は、いまでは「ハレ」の食事。お客様には良いところをお出しして、そうではない部分は家人がいただくもの。という観念がある。だからお客様から見れば、提供されない部分がどうなっていったのかはわからないし、もしかしたら「いらないもの」つまり「ゴミ」と認識されることすらもあるのかもしれない。そんなバカなと思うかもしれないけれど、魚のアラの煮付けを提供したところお叱りを頂いたこともあるし、エビや魚の頭や玉ねぎの皮で出汁を取ったと言ったら怪訝な顔をされたこともある。もちろん一部の人ではあるけれど、ゼロではないということだ。

ゴミと認識する境界線。これを統一するのは難しいだろうけれど、これからの食糧問題やゴミ問題を考えるうえでは、心に留めて置く必要があるんだろうな。人間にとってはゴミでも、微生物にとってはごちそうだったり、昆虫にとっては快適な住処になったりするじゃない。広く捉えると、誰からも見向きもされないゴミってほとんど無いのかな。

今日も読んでいただきありがとうございます。アラとか血合いとか内蔵とか、そういうところってホントは美味しいんだよね。少なくともぼくは好き。で、ホントに食べられないところ以外は食材を使い切ったら、達成感のような満足感のような心地よさがあるんだよ。そうすると、ちゃんと「ありがとう」って気持ちになる。使い切らないときは「ごめん」だ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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