レシピ本を参考にして料理を作るとき、父にこう言われたことがある。はじめのうちは、なるべく同じ人のレシピ本だけを見たほうがいい。当初はピンとこなかったのだけれど、しばらくしてから意味がわかってきた。
料理には茶道や華道、剣道や柔道みたいに「道」という言葉が使われることが少ない。無いことはないかもしれないけれど、それはコピーのように使われていて、確立したジャンルのように扱われることは少ない気がする。
いま、剣道と入力して変換したら県道と出てきて、修正したわけだけれど。道という字を使っている点では同じだ。もともとは道教で説かれるように、自然の摂理みたいな意味で使っていたのだろうか。でもまぁ、その道をたどればどこかにたどり着くという意味では、やっぱり同じ「道」なんじゃないかとは思うわけだ。
道っていうのは、同じ道を通れば同じ場所にたどり着くものだ。戦国時代の地図を見るとよく分かるけれど、道が整備される前は本当に移動が大変だっただろうと思う。道がないから、自分たちで枝を払って、躓いたり転んだりしながらなんとか進んでいく。そういう行軍をしていたわけだ。屈強な兵たちだし、集団だからこそなんとな進軍できたということもあるんじゃないかな。それに比べて、「東海道を下り続ければ必ず江戸に着く」といのは、なんとも便利でありがたい。迷わなくて良いからね。しかも、鍛え抜かれた兵士じゃなくても、一般人だって頑張れば道を進むことが出来る。
ベテランのドライバーも、プロのドライバーも、初心者のドライバーも同じ道を通っていて、目的地にたどり着く。ちゃんと地図があって、ルールを守っていれば大丈夫。ちゃんと東京へ行けるんだ。
茶道や華道も、同じなんだろうな。同じ道を行く。だから、まずはその道を使って目的地へとたどり着くところから始めるということで、それは地図を手に入れるっていうのと似ているのかもしれない。個性を発揮するとか、そういうのはその後に考えたらいいんだよっていうのが根底にあるのだろう。守破離っていう考え方は、こういうところから出ているのかもね。
目的地にたどり着くためには、いろんな道があって、交通手段だっていろいろある。というのが、流派のようなものかもしれない。目的地へと早くつくことが優先かもしれないし、景色の良いところを選んで進むのが良いかもしれないし、じっくりと行程を味わうことを大切にしているかもしれない。思想というかクセというか、そういうのがあって、賛同する人達によって流派というのが生まれている。なんて言ったら叱られるかな。なんとなくそんな気がするっていうだけなんだけど。
料理には道というものが無いように見えるのだけれど、きっと似たようなものがあるんじゃないかな。ただ、あまりにも多様性が高すぎて「料理道」というまとまりのある体系化されたものが生まれにくいのかもしれない。流派がたくさんあるし、勝手に流派を名乗るのだってできちゃうからどんどん増えていく。
会席料理というジャンルに絞り込んで、道を進む。ある程度の目的地にたどり着くためには、あれこれといろんな流派をちょっとずつかじっているよりも、一つの流派で修練を積んだほうが良い。ある程度熟達していったら、いろんなものを取り入れていく。そんなイメージ。だから、職人はある程度のレベルに達するまで一人の親方に師事するんだろうなぁ。冒頭の父のセリフはこれを言っていたんだと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。この考え方って、うまくなりたいっていうモチベーションがあるというのが前提なんだよね。手っ取り早く美味しい料理を作りたいっていうのには向いていない。レシピ本って、それぞれに対応したカタチで存在していて、一般的には後者のほうが多いイメージかな。